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アレンジより生ける花?(BM1)

お寺に嫁いで新しく始めたことはいろいろある。

中でも「生け花」はお寺に嫁がなかったら必要に迫られず、興味を持たなかったかもしれない。

私の場合、生け花は「池坊」の先生に学んできた。

ところで生け花とアレンジ花はどこが違うのだろう?

「生け花」を訳してみたところ、ikebanaともでてくるが、flower arrangementと訳される。さらに arrangementを日本語に戻すと整理するとか、整理整頓・配合・配置などの意味が出てくる。そして、その言葉から受けるものは、私が学んできた「生け花」とどこか印象が違う。

そもそも「生け花」という言葉自体不思議な言葉だと思う。

私の習ってきたお花の生け方だと、

「その花が自然界の中でどう在ったか?」をいつも問われる。

自然界でのその花材の「在り方」が一番重視される。なので、アレンジというよりは花器の中にそもそもその花材が生きていた状況を再現するという印象の方が強い。その辺りが、アレンジ花とは違うのかもしれない。

その花が切り取られる前、自然の中でどう在ったのか?

を問うのがアレンジ花とは特に違うように思う。

花自体の本来の実態を観察していないとできないことで、そういう風に花を見ていくことを教わっていると、普段目に留まる自然の見方もちょっと変わったりする。

花や木々がどういう方向で伸びていこうとしているのか、葉っぱはどういう組み合わせで共に在ろうとしているのか、そんなことまで観察したうえで花器に生けていくし、それにまつわる決まり事も結構ある。

自分が分からない自然の法則ごとでも、その古からの決まりごとに沿っていけると、それこそ「自然」な形に整い、「美しい」と感じたりする。

そういえば、「自然」という言葉はそもそも仏教の言葉で「じねん」という。「自然薯(じねんじょ)」のじねん。「自ずから然らしむ」、そこには一切人間のはからいはない。

今、家での生活が増えて、なんとなく「花を生ける」ことが生活のリズムを整えるのに良いような気がする。もしかしたら暇だからプランタで野菜を育てたり、生き物を飼ってみたり、なんとなく家の中に「自然」を欲している人も多いかもしれない。

その時、アレンジというより「生け花」の花に対する思想は、結構役に立つかもしれない。

具体的にいうと、花を生けようとする際(飾ろうとする時)、一旦花を観察してみる、花が「在りたい方向性」を見極める、ということをまず中心においてみてはどうだろう。

「自分が花をこうしたい」という思いから離れ、花そのままの姿を受け入れてみる。その後に生けられた花はこれまでと違う顔を見せる?かもしれない。

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