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ショートショート:「お迎え」

 太郎は、どこにでもいるサラリーマンでした。彼には妻と、3人の子供がいました。太郎の給料は決して多くはなかったので、3人の子供を養うのは大変なことでした。彼の家計にはゆとりがなく、彼の妻も、彼にわずかばかりのお小遣いしか与えませんでした。

 彼は牛丼ばかり食べていたので、彼のお腹は毬のように膨れていました。会社では上司の斎藤に毎日のように激しく罵倒され、さらに、せっかくの休日も子供の相手をしなければならなかったので、精神的なゆとりもありませんでした。彼はしばしば、「生きることは、どうしてこんなに辛いのだろう?」と自問しました。

 そんなある日、太郎は妻から毎月のお小遣いとは別に、一万円を渡されました。その頃、太郎の会社の業績が上向いていたので、ボーナスをたくさん貰えたという背景があり、妻も太郎の日頃の労を労うために、太郎にボーナスを与えたのでした。

 予想だにしていなかった出来事に、太郎の胸は高鳴りました。

「このお金で何をしよう?」

 と、考えが脳内を駆け巡りました。とはいえ、一万円は決して小さなお金ではないにせよ、大金でもありませんから、大したことはできそうにないことに、すぐに気が付きました。考えた挙句、できそうなことといえば美味しいものを食べることくらいしかない、という結論に至りました。

 最初に彼は、ずっと食べたかった高級焼肉のレストランに入ることを考えました。普段食べている牛丼の質の悪い、安い肉ではなく、口の中でとろけるような、本物の肉を食べたいと思ったのです。しかし、いい年をしたおじさんが、一人きりで高級なレストランに入るのも、どうも気が引けました。そういう場所にそぐう身なりの人間なら問題はないだろうが、自分のように腹が突き出て、ユニクロの服を身にまとった人間がそういう場所で、一人で食事をするのは、なんだか場にそぐわないような気がする、と考えたのです。

 しかし、彼は目当ての焼肉レストランで、持ち帰りの高級弁当を売っていたことを思い出しました。ネットで調べてみると、その弁当の値段は、8,000円でした。

「余った2,000円で、帰りにカフェでデザートでも食べるか。」

 そう考えて、彼はレストランに向かいました。

 8,000円を払って目当ての弁当を手に入れて、人通りの少ない公園のベンチに腰掛け、弁当箱を開けました。たちまち、高級な肉に特有の甘い香りが、彼の鼻を刺激しました。

「こんなに良いものを最後に食べたのは、いつのことだろう?」

 太郎が感極まって、割りばしを手に取ろうとした、その時です。不意に人の気配がしたので、隣に目をやると、顔と体の至るところに深い皺が刻み込まれたお爺さんが、その細長い目で弁当箱をじっと見据えていたのです!

 太郎が気を取られていると、お爺さんは弁当箱の方に首を伸ばして、舌を出して唇をペロリと一なめしました。そして、ああ、なんということでしょう、お爺さんの舌から垂れた涎が、高級弁当の牛肉の上に、ポタリと落ちたのです!

 太郎はただ口をあんぐりと開けて、ことの成り行きを見守ることしかできませんでした。さらに、そのお爺さんは弁当箱の脇についていた割りばしをいつの間にか手に取って、こともあろうに弁当を食べ始めたのです。

 あまりの出来事に呆気に取られていた太郎ですが、しばらくして我に返って、

「爺さん、人の弁当に何をしているんだ!」

 と、激しく怒鳴りつけました。お爺さんは少し驚いた様子で太郎の目をみつめて、

「これは申し訳ないことをした。あまりに美味そうな弁当だったもので、つい手が出てしまった。」

 と、悪びれる様子もなく答えました。怒りがふつふつと湧いてきた太郎は、

「この弁当は、8,000円もしたんだ!こんなに食い散らかして、もう台無しだ!どうしてくれるんだ!」

 とお爺さんを罵倒しました。それでもお爺さんは平然としたまま、

「まあまあ、落ち着きなされ。見返りはお渡ししますので。」

 と言い、そのまますぐに、弁当をきれいに平らげてしまいました。

 「ふう、食べた。いや、こんなに美味いものは、久しぶりじゃ。」

 お爺さんは満足そうに、ため息をつきました。太郎はますます頭にきて、

「こんなことをして、どうなるかわかっているでしょうな?あんたがやったことは、立派な窃盗だ。」

 と、お爺さんを鬼の形相で睨みつけながら、言いました。お爺さんは、事ここに至っても飄々とした様子で、

「ほっほ。まあ聞いてくだされ。」

 と前置いてから唐突に、

「儂は死神じゃ。あんたは、本当はこの弁当を食べて、血管が油で詰まって死ぬ運命だったのじゃ。儂はあんたを迎えに、ここに来たのじゃよ。」

 と信じがたいことを言いました。太郎は今にも警察を呼ぼうとしていたのですが、お爺さんの現実離れした話を耳にして、再び唖然として、固まってしまいました。そんな太郎の様子をよそに、お爺さんは

「儂は、あんたを迎えに来たのじゃが、この弁当があまりに美味そうだったもので、つい手を出してしまったのじゃ。あんた、命拾いしたのう。」

 と、ヘラヘラと笑いながら言いました。

「なんてことだ。頭のおかしいやつに絡まれてしまった。」

 と、太郎が思っていたことをつい、口に出してしまったのを耳にしたお爺さんは、

「なにを言うか!これを見ても信じられんか?」

 と言って、急に真剣な顔つきをして、ベンチから立ち上がりました。そして、ベンチから少し離れた場所に生えていた2メートルくらいの小ぶりな木の幹に、そっと手を置きました。

 すると、なんとその木の葉はみるみる生気を失った黄色になり、枝や幹も萎れて朽ち果ててしまいました。それを見ていた太郎は、声を失いました。そのお爺さんは、本当に死神だったのです!

「なんてことだ。とんでもないものを引き寄せてしまった。早くどこかへ行ってくれないだろうか?」

 太郎がそう思いながら恐怖に身を震わせていると、死神は、

「安心しなされ。あんたの運命は変わって、今すぐに死ぬことは、なくなったのじゃ。せっかくじゃから、儂からのアドバイスじゃ。せいぜい健康には気をつけなされ。それからさっきも言ったように、弁当の見返りをくれてやろう。」

 と、再び笑顔になって言いました。これを聞いた太郎は少し安心して、

「それじゃあ、しばらく私に近づかないでくれませんか?私にはまだ生きて、やらなければならないことがたくさんあるので。」

 と答えました。死神は少し呆れた様子で、

「あんたもわからんやつじゃな。あんたが今すぐに死ぬことはなくなった、と言っておろうに・・・。儂があんたに見返りとしてやってやれることとは、あんたが選んだ一人の人間を、すぐに死人に変えてやることじゃ。あんたにも気に食わんやつの一人や二人、いるじゃろう。儂がその者を、葬ってくれよう。」

 と言いました。これを聞いた太郎は、少し恐ろしくなりました。太郎にとって一番憎い存在は、会社の上司の斎藤だったのですが、彼にも道徳心がありましたから、それを口にすることには、躊躇いがありました。太郎がしばらく黙り込んでいると、死神は高笑いをして、

「隠さんでもよい。儂には人間の心が読めるのじゃ。あんたが憎い相手は、よくわかった。この者は、近いうちに亡き者になるであろう。なに、ストレスのもとになっている人間が消えるのは、案外気持ちの良いものじゃよ。また、あんたの望みでそうなったことは誰にもわからんから、安心せい。」

 と言い残して、ドロンと煙のように、姿を消しました。

 死神が目の前から姿を消して、太郎は安堵のため息をつきました。本当に斎藤が亡くなってしまうかどうかはわかりませんが、とりあえず自分がすぐに死ぬことだけはなさそうだったので、素直に安心しました。

 それから3日ほどして、上司の斎藤は脳卒中で倒れ、あっさりと亡くなってしまいました。死神の予言通りになったので、太郎はぞっとしましたがそれと同時に、もう斎藤が押し付けてくる無理難題をこなさなくてもよくなったと考えると、胸が軽くもなりました。

 太郎は死神に出会ってからというもの、死神のアドバイス通りに、食生活を見直すなど、健康に気を付けた生活をしていました。そして、無理難題を押し付けてきた斎藤もいなくなったことで、彼の日々の生活のストレスは、随分減りました。それから一年くらいは体調も良く、彼は心穏やかな日々を過ごすことができました。

 ところが、です。太郎と死神との出会いから一年くらい経ったときに、太郎の会社は倒産してしまいました。実は、上司の斎藤は凄腕の営業マンで、太郎の会社の業績が上向いていたのも、一重に彼の活躍があってのものだったのです。大黒柱である斎藤を失った会社の経営は大きく傾き、最後には倒産に至ってしまったのです。

 当然、太郎は職を失い、すでに中年だった彼は、次の仕事を見つけることができませんでした。そして太郎の妻は、無職になった太郎に最後には愛想をつかして、子供と一緒に家を出て行ってしまいました。

 すべてを失ってしまった太郎は途方に暮れ、気が付くと死神と出会った公園のベンチに腰かけ、目の前に立っていた大きな木を、ぼんやりと見つめていました。太郎がふと目を横にやると、一年前と同じように、死神が彼の横に腰掛けていました。太郎が、

「やあ、また会いましたね。また何か、アドバイスでもくれるのですか?」

 と力なく話しかけると、死神は、

「いや、今度こそ、儂はあんたを迎えに来たんじゃ。あんたが今から何をしようとしているかは、よくわかっておるからな。」

 と、皺くちゃな顔に邪悪な笑みを浮かべて言いました。

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