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忘却のカタルシス (完全版)



表紙デザイン:秋山龍一

わたしはふと、昔のことを思い返していた。記憶の奥底に眠る断片が、静かに蘇ってくる。

それは、まだ私が小さかった頃のことだ。蒸し暑い梅雨が明けた頃、蝉が鳴き始めた。蝉の声はまるで耳を劈くかのように煩く、空気中に重くのしかかっていた。

世間一般では、日韓ワールドカップに湧いて賑わいを見せていた時期でもあった。

そのためであろうか。街では居酒屋など軒並み、店内にてテレビを設置してあり、見知らぬ人同士で盛り上がりを見せていた。

人間何か同じ目標があれば見知らぬ同士でも、すぐに打ち解けてしまうのは何故だろう。

梅雨の頃は、蛙が車に轢かれて潰れていたことが頭に鮮明に残っている。その頃のことを思い出すと頭が痛くなることがある…。

フラッシュバックはわたしの日常から解き離れた優しい世界であり、記憶の断片がパズルのようだ。

そのときだった…ふと思い出したことがある。

そうだ…あのとき約束したんだ。

「決してあきらめない」って。あの子に。
そうだったっけ。そのことを忘れてどれくらいになるだろう。

忘れていた記憶が脳の片隅から引き出されるようだった。考えていたらまた頭が痛くなってくる。

わたしは眉間に皺を寄せてこめかみを抑える。僅かな記憶を頼りに遡ってみる。昨日のことのようで記憶は不確かだ。

良い記憶は自分の都合よく思い出されてゆく。
悪い記憶は心の奥底に追いやってしまう。

逃げるように認めたくないこともある。忘れ去りたい記憶のパズルを無くしてしまいたい。

あの子は妖精だったと思う。今となってはあまり分からない。
「かの世界」からきたと言ってたんだもん。

「その世界はどこにあるの?」と、しどろもどろな口調で聞き返していた。あの子のことがよく分からなかったし辿々しい口調になっていた。

人との交わりの浅いまだ幼い思い出が歩き出す。
手探り状態で探りながら人の心に触れてゆく。
ガラスが割れないように壊れ物に触るように。

紛い物に騙されたくない。摑まされたら厄介だ。

わたしはまだ幼かったし、かの世界には妖精が住んでいると本気で信じていたから。だってそうでしょ?
まるで頭の中はファンタジーか御伽の世界を本気にしてた。

小さな子に、かの世界とは「天国」のことだなんて説明しても理解できないと思う。天国という存在すら知らない時期だった。あの子はわたしに続けて言った。

「わたしを守るためにきた」

それから私たちはよく一緒に遊んだのを覚えているが、顔までは正直思い出せない。まだあやふやな不確かな記憶しか脳には記憶できない。

緻密な脳細胞のひとつひとつに断片パズルの記憶を収納していくように。思考回路の乏しい幼児だ。

あの子の言った言葉を理解出来ずに、ただ寂しさから逃れたい一心で遊んでいたっけ。

幼いながらも寂しさだけは人一倍持ち合わせている。
下腹部あたりが痛くなってくる。胃の痛みか。神経痛か。

幼い頃の記憶なんてあやふやなものだから。
搾り取るように記憶を遡ってみるとまた頭痛がする。
ただ、仲良くなるためだけに必死だった。

幼い頃というものはすぐに仲良くなるものだ。
子供は大人のように心の駆け引きなどしないし、真っさらな心だからすぐに心を開ける時期でもある。

その開放的でなんでも受け入れ体制の白紙の心は呼び込んでいく。

あの子が同じくらいの年頃の同じ女子で似たような髪型をしていたのを僅かに覚えている。 

昼も…夕方も日が暮れるまでずっと一緒だったっけ。あの子がいてくれたから幼い頃の私は救われた。ひとりぼっちから解放されたからだ。 

とても楽しかったのを微かに覚えてる。幼い頃は俗世間にまだ毒されていないぶん余計なことを考えなくていい。
まだ純粋無垢だった時期だから何でも吸収してしまう。

あの子と出逢ったその年はエルニーニョ現象の蛇行の影響もあり、とくに熱い夏だった。むせかえるような暑さだ。
紫陽花はついに綺麗な彩りを見せなかった。
萎れて枯れるモノクロームのような淋しい色合いを残して。

蒸気がアスファルトから湯気のように立ち上って登っていた。アスファルトの道路は、太陽で熱せられて陽炎ができていてレンズが屈折しているように遠い場所が揺らいでいた。

私は母に買ってもらった赤いリボンの麦わら帽子を団扇がわりにしながら木陰で休んでいた。わたしのお気に入りの帽子で出かけるときには、いつも持ち歩いている。

あの子と出会う前までは、いつもひとりぼっちだったわたし。「三つ子の魂百まで」と言う諺が示すとおり、わたしはそのまま大人に成長したような臆病な性格になってしまった。

ある日のこと、いつものように公園のブランコや滑り台で遊んでいたら、あの子は現れた。始めはビクビクしていた。遠目で観察しながら様子を見ていた。

この近所ではあまり見かけない子だと見てすぐに気づいた。わたしは毎日のように公園へ足を運んでいたからね。場に慣れた頃を見計らって、疑いもせずにそろり…そろりと近づいていって、こう話しかけた。

「一緒に遊ぼう」

あの子からは声をかけてくる気配がしなかったんだもん。たぶんあの子も怖くて臆病で声をかけずらいのかな?と思った。

公園は閑静な住宅街の中央にひっそりと存在していた。
風よけや日よけの「シラカシ」という常緑の広葉樹が鬱蒼と生い茂り、公園は昼間でも薄暗かった。わたし達以外に、誰も遊びにくる子供はいなかった。

日が翳る中、公園内はあまり目立たなくて、私たちが遊んでいることも気づいてもらえないこともあった。
わたしもあの子も他にも子供たちがいたら、お互いに声もかけていなかっただろうし、遊ばなかったと思う。

たくさんの子たちがいたら、そっちにばかり気を取られて注意散漫になっていただろうから。

公園は四方を住宅街に囲まれたその中央にありながら、死角になるような作りだった。公園を取り囲むように生い茂るシラカシの手伝いもあり、見事に風が入ってこないから、蒸し暑かった。

わたしの両親は共働きだった。父は都内で働くサラリーマンだった。そのために帰りが遅かった。母はインストラクターをしていた。

日が落ちても家でひとりで過ごすことが多く、おばあちゃんの家に行ったりしたものだ。だって…怖くて。だけど、とき同じくして、そのおばあちゃんも他界してしまった。

家の中でひとり、留守番をすることの空しさ、途方もない悲しさは、このときに心の奥底に植え付けられていった。

静まり返る部屋の中は、幼いわたしにとっては恐怖そのものだった。怖さを誤魔化すために独り言を喋ってみたり、お気に入りの人形を片時も離さなかった。

わたしの親友でもある。人形のマリーとはよく喋っていた。それでも拭いきれない虚しさ。

自宅の茶色の重厚な壁の古い時計の針の動く音が、部屋の中にカチカチと鳴るのはわたしの中でトラウマになっていた。想像してみてください。シーンと静まり返る半ば、カチカチと鳴り響く時計の音。

何をしようと怒られることもなく、淋しかったわたしはひとり公園へと遊びに行ったものだ。そのときに出会ったのが、あの子だった。

おばあちゃんと入れ替わるように現れたあの子。ほどなくして現れた。だから寂しい思いは少しだけ和らげた。おばあちゃんがわたしの淋しさを紛らわすために贈ってきた使者なんだ。

あの子はわたしが公園にくる時間にいつの間にかそこにいた。
そして、わたしが帰るとあの子もいなくなっていた。わたしの生活に合わすようだった。

あの子もわたしと同じ境遇で同じ環境の中で育っているに違いない。そう感じて妙な親近感を覚えていたものだ。私たちはすぐに打ち解けて仲良くなるのに、そんなに時間は要さなかった。

おばあちゃんの家で一緒にお絵描きしてみたり、おままごとをしていた。おばあちゃん亡きあと、静まり返る家になっていたけどあの子がいたから楽しかった。

おばあちゃん家には、お母さんの妹さんのたまきがいた。環がおばあちゃんの世話をしていたのを覚えている。わたしの叔母さんにあたる人。叔母さんはわたしに良くしてくれたっけ。姉であるお母さんの娘だもんね。

あの子とわたしは、わたしのお母さんのインターハイのトロフィーとか賞状などたくさん飾ってあるものにとても興味を示していた。わたしも初めてみるようなものばかり。

そして、わたしに「やらないの?」と問いただしてきたことがあった。わたしはすぐにモノを投げ出してしまうから、わたしには無理だと言ったことがある。

その頃は小学低学年になっていたと思う。手を合わせモジモジさせながら手を拱いてそう言った。

そしたら、あの子はものすごい勢いで怒った。
一度やってダメだからと諦めたらいけないと諭してくれた。

まだお互いに小学低学年の少女同士。そのとき、初めてあの子と喧嘩したと思う。
それが元で大げんかになり、あの子とは疎遠になってしまってそれっきり。

それからわたしは、環叔母さんにすごく怒られてしまった。叔母さんはお母さん以上に厳しい人。ある意味でわたしのことを自分の娘のように感じてくれていた。

わたしは叔母さんから叱られた。だから自分の非を認めて心を入れ替えるつもりであの子に謝るように説教された。あのときはごめんね…とひとことだけ。

だからあれから何度も公園に行ってみたり、夕方まで待っていたりしたが、現れることはもうなかった。そのことが原因でさらにわたしは心を閉ざしてしまうことになる。

季節はもう秋になっていた。幼い頃から小学低学年まで仲良くしていた幼馴染のようなあの子との関係は終わった。

公園は夕方になると風が吹いてきて少し肌寒いくらいだった。
わたしは風邪をひいてしまい両親に怒られてしまった。

あれからわたしが受験生になる頃にはもうあの子のことは頭から忘れ去ってしまっていた。中学受験にもなると友達どころじゃなくなる。志望校を決めたり、将来に向けて考える時期になる。

高校生も3年になり、これから大学に通い社会へと出るわたしは、世の中のいろいろな出来事に毒されていき、次第に妖精の存在など見えなくなっていったのかもしれない。と後になって思った。

子供の頃にしか見えない座敷童子のような存在だったのかもしれないと。

わたしは今でも「そのこと」を後悔している…
大切な人との別れ際のことを…

あのときにあの子からもらった月のペンダントを今でも大切にしている。あの子が肌身離さず持っていたものだ。

最後まで謝ることができなかった。だからそのとき誓った。
わたしは決して諦めない…と。母が成し得なかった夢を叶えてあげたい。

そして…
今日から社会人。気を引き締めていかなきゃねッ
わたしはいつにも増して気合いをいれていた。昨日までの鬱が嘘のように晴れていた。昨晩は睡眠をきちんと取れるかどうかさえ不安だった自分が今では別人になっている。

誰だってそうだろう。新社会人になると言うことは不安だらけである。美咲の良いところは気持ちの切り替えが早いところだった。以前の自分から見れば見違えるようだと自分でも思っている。だけど打たれ弱いところは変わってない。 

お母さん代わりの環叔母さんがいてくれたことは、わたしの中で心強い支えになっていた。叔母さんが叱ったり諭してくれてなければ、今のわたしはいない。

今日の朝の準備はわたしの担当だから、朝食作りに忙しい。昨日の残りのものを使って簡単に済ませてしまおうと冷蔵庫を開けた。

いつもはあまり食材は買わないんだけど、昨日はスーパーで安売りをしていたため、いつもより多めに買ってきた。だから夕飯が余ってしまっていた。父もあまりガッツリと食するタイプではない。

わたしの父は物静かな人間である。朝はいつも変わらぬルーティンを欠かせない。朝起きたら、必ずシャワーを浴びて出勤する癖は、わたしが知るかぎり欠かしたことはない。
玄関から出るときは左足から出す。朝のニュースの占いは必ず観る…など、お決まりごとは必ず行う徹底ぶりだ、

我が家は、サラリーマンの父とわたしの2人暮らし。兄もいるけど、今は海外に赴任していて留守にしている。

男手ひとつわたしを育ててくれた父にはとても感謝している。父親はわたしと兄を大学まで行かせてくれた。
母はわたしが中学に入った頃に亡くなった。わたしが生まれて初めて起きた最大の事件は母が亡くなったことだろう。

母親がいないことにいつも劣等感を感じていたわたし。
母はいつも元気だった。家庭内でも向日葵のような人だった。わたしはいつも明るくて活発な母のようになりたかった。

母は、スイミングスクールのインストラクターをしていた。とても行動派な母だった。
それなのに…という疑問ばかりが頭の中を駆け巡っていた。
突然のことに、ただ驚きを隠せずに自分の無力さに憤りすら覚えていた。思春期だったこともある。

すべてが私のせい…。母が亡くなったのも。
母が亡くなったあとの家は、まるでお通夜がずっと続いているような雰囲気。静まり返った家の中はまるで、昔の我が家を彷彿させる。

「あのこと」を考えただけで、心の奥から込み上げてくる自分へのある思いがある。わたしの心の中に深く刻まれたトラウマになっている事件。私の中で触れたくない、触れられたくない真実を心の奥底にしまい込んでしまった。

父と母はいつも喧嘩が絶えなかった。すれ違いの生活がいつのまにか夫婦の間に亀裂を生じてしまっていた。兄がいなくなってから家庭の雰囲気が変わったのかもしれない。

わたし1人の力ではどうすることも出来ず、うろたえるばかり。兄は父と母のクッション代わりになっていたとその時に気づいた。

小学生の私は自室でよく泣いていた。
父と母の言い合いが部屋まで聞こえてきたので、布団に包まり耳を塞いでいたことを覚えている。

こんなときに、兄がいてくれたら…といつも思っていた。兄はその頃には大学に進学していたこともあり、イギリスのオックスフォードに留学していた。わたし達の兄妹は歳が10歳も離れている。

兄はわたしと違う。兄との確執。わたしはよく比べられてた。兄は秀才なのに、親戚の中でも凡人はわたしただ1人。うちの家系は教師が多い。会社経営者もいる。

兄もそんな血筋を引いてるのだろう。わたしはなぜ皆んなのように上手くいかないのか?とずっと悩んだものだ。それは今だに払拭できずにいる。

だからすぐに諦めてしまうくせは治らない。何かに事かけてそれを理由に挫折する癖をつける。どうせわたしのような凡人には無理だと始めから諦めてしまう。

逃げ腰といえばそれまでだけど、保険をかけるように逃げ道を作って生きてきた。それは学生の頃から変わらない。

あの日、あのことで母が亡くなったと聞いたときは、わたしが死ねば良かったのに…と本気で考えた。

ケンカばかりしている両親にはいつまでも仲良くしてほしいと願っていたから、私自身がこの世からいなくなれば、ふたりは仲良くなるんじゃないか?と若いながら青い考え方をしていた。自殺なども考えたことがあったのもそのときだ。

今考えると、母の代わりに私がいなくなると両親は余計に罪をなすりつけあうことが目に見えてる。子供というものは、いくつになっても両親には慎ましく穏やかに仲良く過ごしてほしいと考えるものだ。

そして、私にも帰る家庭があると信じたい。私の実家…帰ると父と母が明るく温かく迎えてくれる。そして楽しい家庭の団欒を夢見ている。小さな頃のアルバムなどを皆んなで見ながら笑ったりしたいと感じるものだ。
今でも考えるとツラくてせつなくなる思い出になってる。

そんな私も社会人になり就職した。普通のイベント広告代理店。本当は母のようにスイミングスクールのインストラクターをしたかった。母がなしえなかった「ある夢」を私が叶えてあげかったが、私は運動音痴だった。ろくに泳ぐことさえできない。

同じ遺伝子なのに、こうも違うのかと小さな頃は悩んだものだ。いつも活き活きしていた母が私は誇りに思っていた。誇らしかった。こっそりと母のスイミングスクールに行って輝いてる母を見ては自慢の母だと陰ながら思っていたものだ。

何度も言いますが私には挫折をする癖がある。すぐに投げてしまう。三日坊主とは私のための言葉だとつくづく思う。 
私は母とは違う。私には人の上に立ち指導する立場になどなれない。すぐに諦めてしまう癖はそんな凄い母を見ていたからだろう。私は母の足枷になると思っていた。私には到底無理だ。

ある人から聞いた話しでは、三日坊主や続かない人こそ才能があるというらしいが、私はそんな言葉は当てにしてない。自分自身が一番よく分かる。それから数ヶ月が経過して美咲は仕事にも慣れて来た。

美咲ぃ!今日ランチ一緒行かない?
ん?いいよ〜良い店でも知ってるわけ?
わたしの知り合いの先輩がカフェをやってんの。行ってみよ?
仕方ない。付き合うとしますか…笑

彼女の名前は美月。私と似た名前で同期入社だった私たちは、すぐに意気投合した。まるで以前から知ってるようなフィーリングの良さと言えば分かると思う。

私はあまり初対面の人や面識のない人とはすぐに仲良く慣れない。人見知りするタイプなんです。幼い頃から蓄積されてきて出来上がった性格からきている。しかし、美月は違っていた。

もう気が合う友人以上の親友になりつつある。美月とは趣味嗜好まで似てる。世の中に彼女くらい私に似ている人がいたら、わたしが見てみたいと思っているくらいだ。

ちょっと聞いてほしいことがあるのよ。
またぁ…?どうせ、おおかた杉山課長のことでしょ?
課長の話しは、以前から美月に相談されていた。相談というよりは愚痴みたいなものだけど。

女は愚痴を聞いてほしい生き物である。話しを聞いてほしいという承認欲求を満たしたいだけなの。そして自分のうちに秘めたるストレスをすべて解放すると納得してしまう。
心の中でモヤモヤを誰かにぶつけたいだけなのだ。

愚痴を聞かされるほうは、たまったもんじゃない。キャッチボールならまだいい。愚痴の場合は、一方的である。
相手のストレスを自分の心というキャッチャーミットて受ける。晴れたモヤが吹き飛んだほうは良いだろう。しかし、モヤを受け止めた方は、心にモヤがかかってしまう。

私は彼女の気を逸らそうと話題を変えてみるが、彼女はガンとしてその路線から外れることはなく、また外れた線路を軌道修正するようにもとに戻してしまう。

話したがりの人間の特徴をあげるとすれば、人の話しを聞かないことだ。こっちが話したくて私のことを質問してもそれに対する答えが戻ってくることはない。結局は自分のことをまた話し続ける。
そのときに、私は思うことがある。
え?わたしの質問に対する答えは?

そのボールをまた投手へ投げ返せれば、試合前の軽いウォーミングアップは成立する。だけど、愚痴は一方的だ。
ボールを受けっぱなしのほうは蓄積されていく。

自分でどこかへそのボールを捨てるか誰かに投げ返す必要がある。美咲は優しい性格だから、つい相手の愚痴を聞いてしまう。美咲のなかにたまった愚痴はどこへ捌ければいいのか。
そんなことを考えながら美咲と美月は会社から出てカフェに向かい歩き出す。カフェへの街並みを観覧しながら歩いてるだけでも良い刺激になる。

東京にはいろいろなタイプの人間がいることを発見できるから見ているだけでも楽しい。ファッションセンスを見ているだけでよい。私はよく参考させてもらったりしている。

神楽坂通は、東京の中心部に位置し、歴史と現代が調和する魅力的なエリア。古き良き風情を感じさせる石畳の道が続き、両側には伝統的な和風建築の店や現代的なカフェ、レストランが立ち並んでいる。昼間は地元の人々や観光客で賑わい活気を見せており、美味しい食事やユニークなショッピングを楽しむ姿が見られる。

夕暮れ時には、神楽坂通の街灯が点灯し、さらに魅力的な雰囲気を醸し出している。小さな路地に入ると、隠れ家的な居酒屋やバーが点在し、友人や同僚とリラックスしたひとときを過ごすのに最適な場所でもある。また、神楽坂の高台からは、東京の街並みを一望することもでき、その美しい景色は訪れる人々の心を癒してやまない。

神楽坂通は、古き良き日本の伝統を感じながらも、現代の便利さと洗練された文化が融合した独特の魅力を持つエリアなのだ。わたしはこの街が大好きだ。

そんな神楽坂通のオシャレなカフェが連なっている中、同期の美月の知り合いのカフェは見立たないようにひっそりと営業していた。以前、仕事の関係で立ち寄ったことがある大田区の大森駅にあるアーケード街の路地裏にひっそりと営業している業界でも有名な喫茶店ルアンのような作りだ。

ルアンがある大森アーケードの街並みは、昔ながらの風情と情緒を残してるため、よく映画やドラマの撮影に使われる。
某刑事ドラマのロケでも使用されていたほどだ。サングラスが似合う二人の刑事コンビの活躍するドラマ。

ルアンの斜め向かいにあるパチンコ屋の軒先に座り休憩している俳優さんをよく見かけた。

「カランッ…」ドアの上に付けてある鈴が涼しげな音を響かせている。漆喰で重厚な作りのドアが開かれると賑やかな女性の甲高い声がドアから流れて入ってきた。その声は店内に入ってきてからも「モヤ」を吐き出してるようだ。

いらっしゃ…美月ちゃん?
はい!先輩!お久しぶりッ!
美月はこれ以上ないくらいの笑顔で挨拶を交わした。心の中のモヤは消えかかっているような顔つきだ。

美月の知り合いの先輩の店は、落ち着いた雰囲気で重厚感と最近流行りのカフェのスタイルの両方を合わせたような店だった。ハリーポッターの世界観があちこちに見受けられる。
この店のオーナーのセンスの良さが窺える。

耳に心地よいBGMが流れてきて耳から入ってきたサウンドは脳に良い刺激と回想をさせてくれる。
煎れたてのコーヒーの香りとサイフォンのぷくぷくする音も耳障りではない。

何とも趣きある店である。雰囲気が良いと言えばみなさんにも伝わるだろうか。カフェながらランチもあり、いろいろ取り揃えてある。最近流行りのカフェランチというものらしい。

近くの女性会社員(OL)にも人気あるカフェで、美月は先輩から客足が遠いと聞いていたが、そんなことはないと店内に入って思った。美月に気を遣わせまいという心配りと配慮だろう。

忙しいと知ったら来づらくなると思ってのことだ。
美月もその辺は心得ているため、店内が忙しいと分かっていたら来ていない。美月はそういう女性だ。

店内は若い女性会社員で溢れ返っていた。週替わりのランチが人気に拍車をかけていて、デザートも甘党の女性会社員の心を掴んでいる。流行りのパンケーキ中心に品数豊富に取り揃えている。甘い香りが店内に芳しい彩りに拍車をかける。

お昼の休憩時を利用して楽しむ笑顔が店内に溢れている。パソコンのカタカタとキーボードを叩く音もあれば、ひとり読書を楽しむもの。会話に花を咲かせる女性たち。

この店はね、すっごく美味しいんだよ!菜月先輩は、ハワイまでパンケーキの修行に行ってたんだよ。湘南の方のパンケーキが先だっけ?

菜月と呼ばれた女性が言う。
湘南の方が先よ。そこの高杉オーナーの紹介でハワイの店を紹介してもらったんだから。

独立はさせてもらったが、高杉の店の2号店のようなものだ。暖簾分けしてもらって数年くらい経つ。女性目線からの店舗作りとメニューに凝っていて、人気が出ている。

美月は溢れるくらいの笑みを浮かべてニンマリとして語っている。目がへの字のような漫画でよく見るアレである。

ふ〜ん、凄いバイタリティーある人だね。と美咲は菜月を見ながら、自信を無くすような素振りをしていた。
みんな凄いなぁ…自分の目標を持って突き進んでいる。

隣の家の芝生が青く見えてる美咲。周囲は出来る人ばかりのように見えている。言い換えれば自分を貶めることで、出来ないことの言い訳をしているようにも見える。
自分には何があるのだろう。夢?目標?
考えてみるが思い出すものもなければ、思い当たるものもない。

菜月はそんな美咲の顔を見ながら喋り始める。
ハワイに私の知り合いの人もいるのよ。その人の紹介でね。
高杉の知り合いのことである。
あら?美月ちゃん、こちらは?
店のオーナー兼店長は、美咲を見ながらゆったりした口調で話した。興味ある素振りで視線を向けている。

先輩ッ!うちの会社の同期入社の美咲です。
美咲、こちらは麗しきご令嬢の菜月さん。
美月はいつにも増してエネルギー漲るように紹介している。

菜月はスラリと高身長のモデル体型の美人だった。髪は栗色をしていて、長いからポニーテールにまとめている。
切長の切れ込みの入ったような今流行りの韓国メイクをしていた。あまり際立たないようなナチュラルなメイクである。

こんにちは美咲ちゃん。菜月はマジマジと美咲を見ていた。
【先に挨拶されちゃったなぁ。本当は私の方から挨拶すべきなのに…私ってダメだな】美咲はいつも調子で不甲斐ない。

美咲ちゃん、そんなに気にしなくていいのよ。と気さくに笑いかけてくれる菜月。軽く肩に手を添えてポンポン…と叩く。

菜月は美咲が要らぬ心配をしないように気遣いをしてくれた。
お客様なんだから気を張らないで肩の力を抜いて楽にしてね。
まるで会社のときの面談のようだ。と美咲は思っていた。

ふ〜ん。という顔つきで見つめる。
菜月は何かを感じ取っていたようだったが、あえて何も言わなかった。菜月は勘が働く人で第六感に長けているように美咲には思えた。

…こんな人もいるんだ。凄いなぁ。わたしとそんなに歳も変わらないはずなのに。
そんな菜月を見て美咲は戸惑っていたが、美月がフォローしてくれた。

ねぇねぇ、何食べようか?先輩ッ、今日のオススメは?
美月は目を輝かせながらメニューに見入っている。まるで片っ端から食そうと言わんばかりである。

そうねぇ、あなた達、午後も仕事よね?あまりお腹に負担のかからない「ワンプレート」にしたら?

店内を見渡しながら、美月たちと話を続ける菜月。菜月は店のオーナーらしく周りへの配慮と気配りは欠かせない。
これだけのお客様を相手にしてるんだ。当たり前のことである。しかも今は、ランチでかき入れどき。

いくらアルバイトがいるとはいっても、心もとない。気を緩めるわけにはいかないのである。それを考えると美月はそこまで気が回らない少しズボラな性格なのか?と美咲は感じてる。

はいッ!じゃあそれで!とにかく美月は元気がいい。いつもハキハキと活発な女性会社員といった感じだ。身振り手振りでジェスチャーも大袈裟なくらいである。

そんな美月を見ているとこっちまで元気になりそうだった。しかし、逆に自信を喪失してしまう原因でもある。彼女はこんなに明るく活発なのに、私は…といつも感じとっていた美咲。
はぁ…出るのはため息ばかりだと感じていた美咲に…

美咲ちゃんも同じものでいいの?
え?あ、は…はい。お願いします。
ボォーと考え事をしている美咲に菜月はそっと声をかける。

美咲はひとりで牛丼屋さんのようなファストフード店に入れない性格をしている。だから初めて入る店では思わず緊張してしまう。いくら親友の美月がいようと変わらないのである。
周りをキョロキョロと見回したりしていると、一見すると不審者のように見えなくもない。

美咲は、美月が菜月とおしゃべりをしていたので、店内を見まわしていた。オシャレなお店ね。時間を持て余すように店内の隅々まで見入っていて、尚も話しをやめない美月を他所に視線を店内に向ける。

たくさん若い女性会社員さんがいるのね。皆んな活発そうで第一線で働いている企業の社会的責任を負ってる逸材のように美咲には感じていた。「それに比べて私は…」という言葉が美咲にはいつも付き纏っていた。

周りを見ると自分よりずっと輝いてみえてしまう。気後れしてしまうことは、いつものことなのだと美咲はさらに深い傷を負ってるようだ。自滅してどうする。など、つまらないことで頭を悩まして、つまらない労力を使っている。

街を歩いていると綺麗な洋服を着て颯爽と歩いてる女性を見ると足を止めて観察する。
あの服、可愛い…いいなぁ。どこのブランドだろう?と確認するためにその女性のあとにそっと着いて確認を怠らない。

直接聞けば済むことなんだけど、それが出来ないのが美咲なのだ。その服、どこで買われました?のひとことが言えない。
それに、私にはどうせ似合わないわよ。と諦めてしまう。

何にしてもそう。仕事にしても、私生活にしても、恋愛だって…。また美咲の回想癖が始まる。

この春、美咲は失恋を経験していた。好きだったというより相手から告白されてとりあえず付き合ってみた。そんな付き合いだった。受け身からの恋愛。怖がりで臆病だから、自分から告白して振られるのを恐れている。

今回も彼からの一方的なアプローチに押された感じだった。押しに弱いタイプ。だから別れたからといって、心の痛手はさほど感じられなかったが相手の方から突然別れを告げられて意気消沈していた。私が悪いんだろうと自らの価値観を下げていく。美咲のお得意の逃げの口実だ。相手を責めるということを知らない。自虐する癖は言動となって表れてしまう。

さっきの承認欲求の話しじゃないけど、唯一、男性で気を許せる存在だった元カレの来生直人には、わたしの承認欲求の捌け口になってもらっていた。

直人はとても聞き上手で穏やかな性格なんだけど、聞き上手に徹底すれば良いものをアドバイスしてくる。美咲にしてみれば、男女問わずここまで気を許せるのは美月くらいなものだ。だから元カレとの別れは貴重な人材を失った感がある。

美咲は、元カレや男性に対して思うことがある。

ちょっと、違うんだよね。女性はアドバイスなんて求めていない。始めから答えは自分でも分かっている。心の中では解決してる。ただ聞いてもらいたいだけ。 

女性はおしゃべりな生き物なのだ。それを分かってほしい。世の男性は知らなすぎる人が多い。

それなのに、世の男性ときたらカッコつけのためかアドバイスしてくる。直人ともそれが原因で亀裂が生じてしまったわけだ。

頼ってもらえたり、身の上話や相談を持ちかけられて嬉しいのが男性心理なんだけど。は直人の意見である。男性はいつも聞かされるとモヤを移されてるようで、煙たがってしまう。一方通行のキャッチボールの相手をされてる男性は徐々に離れてしまう。

やっぱりわたしってダメなのね…。桜並木の中央に佇んで見上げると風に煽られて、桜の花弁が舞い散っていた。桜の花弁は美咲を取り囲むように旋風を起こして舞っている。
桜はわたしを勇気づけてくれてるのか、それとも失恋したわたしを嘲笑っているのか。
いずれにせよ心中穏やかでない気持ちに変わりはない。

散っていく桜を自分と重ねていたのはまだ記憶に新しい。
何だか思い出したら、また込み上げてくるものがある。まだ日が浅いこともあるけど、失恋の痛手は尾を引いていた。

そのときに拾った桜の花びらを持ち帰り、テレビの横の台の上に小さな小瓶を買ってきて、中に入れて密閉して飾ってある。
失恋の不戦勝品のようだ。と美咲は思っている。

先日、会社帰りにセリアに寄って買ってきた小瓶は気に入っている。美咲はよく100円ショップのセリアを利用する。細かい作業が好きな美咲は、小物を買ってきたりしては自ら作成したりする趣味がある。

セリアは美咲にとってパラダイスのようなショップである。手先が器用なだけに木工用ボンドと木片や小物類を合わせて時計を作ってみたり、LEDライトを買ってきて飾ってみたりすることに一時期ハマっていた。

美咲は暇だからSNSをチェックしていた。昨晩投稿したポストにはイイねが1つしかついてない。訪問者は30人程度だ。
そんなにおかしなこと書いてないのに…と、少し怒りにも似たような感情が込みあげてくるが、打つようにも打つける相手もいない。すべてにおいてため息しか出てこない。

ごめん、ごめん…先輩と話し込んじゃって。ひとりぼっちにしてごめんね、美咲…。と別段心配している様子も感じられない美月の笑顔。彼女は根っからの天然キャラがそのまま歩いているようだ。

で?杉山課長がどうしたのよ?と美咲は聞いてみた。
アドバイスを促すつもりなど毛頭ない。
ちょっと聞いてくれるぅ?あのさぁ…。
とテーブルに肘をついて掌を顎に当てて話し出す。
目線は、まだかまだかとキッチンのほうにいっている。
よほど楽しみにしているらしい。

美月の話によると、課長は美月の当たり障りのない対応と人当たりの良さと明るい性格を買ってるらしい。先日も課長の付き添いで大口の取引をやってのけたくらいだ。そのときに課長に軽くお祝いを兼ねて近くの居酒屋で飲んでいるときに、今回の話を持ちかけられたらしい。
今度、その取引先に連れて行かれるというものだった。

良い話しじゃないの。上司に気に入られるなんて、あまりないことだわ。と美咲はいつになく声を張り上げていた。
自分には決して回ってこない話しに身を乗り出す。
内心では羨ましがっているが、自分なら引き受けるつもりはないと思っている。人前で議論や論舌が出来ないのは重々承知の上だ。

どうも美月の顔を見ると何だか気が進まないようだった。理由は定かではないが。それから延々と、ああでもない、こうでもないと喋り倒されて、美咲は目が回る。聞き上手なことも美咲の特権なのだ。当たり障りのない解答をして生返事していればいい。とくに女子同士の親友なら尚更。
話すたびに美月の顔には暗雲が立ち込める。

人の話しを聞くことが精神的に辛いことは、美咲は身に染みて分かっている。美月のようなおしゃべり大好き女子といつも連んでいるのだから。だから美咲なりの対処の仕方も分かってるつもりだ。そんな美月を見ていると微笑ましくなる。
美咲は美月と初めて顔を合わせたときのことを思い返す。

 「はじめまして!」 

私は美月と初めて会ったときのセリフを忘れてない。
ごく普通の挨拶ではあったが、心に沁みてくるひとことだったのを忘れていない。相手の目がものを言っていた。
長い間遠く離れていた人がようやく出逢えたという顔つきをしていた。

彼女の身体から出るオーラと私の醸し出すオーラが合わさって溶け込みふたりを包んでいく。そんな感じだった。

どこかで…お会いしましたっけ?

彼女から出るオーラは他の人とは逸していた。特別な人と出会ったときに感じるあの感じだ。その目が物語っている。

偶然という言葉では片付けられない。必然なのである。
世の中に偶然なんてことはありえないのだ。
すべてが決められた流れに沿ってやってくる。

彼女は前世から繋がりのある人なのかしら?わたしはたまにそういうことに昔から遭遇することがある。デジャブと言ったら伝わるかしら?

初めてくる場所なのに、前にも来たことがあるような錯覚に陥ったり、初めて会う人なのに懐かしさを感じたり。気になったら、調べてしまうのがわたしの癖で、デジャブのこともネット検索したり、動画で調べたりしてみたことがあった。

それによると、デジャブの正体とは前世の記憶が甦るそうだ。来たことのない場所は、前世で来たことがある場所であり、懐かしさを感じる人は、前世で関係があった人らしい。今世でまだ出逢えてない場合に、夢の中に現れたりするらしい。

美月とは初対面から、すぐに打ち解けて、一緒に連んではショッピングしたり、旅行に行ったりしていた。そんな彼女といると心が落ち着く自分を感じていた。

彼女が悲しんでるときは私も悲しくなった。嬉しいときは心から喜んだ。美月って、とても不思議な人ね。頭の片隅に置き忘れてしまい込んでいた。そしていつしか忘れてしまったことが思い出されるようだ。美咲は前世の繋がりを信じるタイプの人間だ。

…なんてね。私の気のせいよね。私自身が母のことで今だに引きずって落ち込んでいたからだろう。誰かに縋りたくなるときってあると思う。わたしはあれから心を閉ざして鍵をかけてしまった。閉ざしてしまった心はなかなか開かない。
人を見るときも節目がちで視線を合わせられずにいる。

そんなときに美月は美咲の前に現れた人物だった。
美月は何だか風変わりな性格をしていると感じることがたまにある。なぜなら…

和多志わたしは…あ、これは昔、私の母の母…つまりおばあちゃんがよく使っていた漢字で戦前までは自分のことを「和多志(わたし)」と書いたらしい。他にも「気」という漢字も以前は「氣」と書いたらしい。戦後にアメリカのGHQによって削除されたかつての日本語らしい。

太平洋戦争に負けた日本は、GHQによって統治されてしまった。それは政治のみならず日本人の根本に根づいている精神にまで行き渡る。

それによって、使用されている漢字から発せられるパワーというものにまで及ぶ。例えばこうだ。
「氣」という漢字には、「米」が入っている。
お米は日本人のパワーの源だ。だから米が入った「氣」という漢字から米をなくしてしまった。「〆る」の「メ」に変えてしまった。
和多志にしてもそうだ。調和の和、志が多い、など漢字には複雑に絡み合って団結させるパワーがある。
GHQが最も恐れた漢字の中に、「そしじ」という漢字がある。これは、今でも故意にスマホのキーボードで漢字変換出来ないようにされている。

「ウ冠に神の主」生成AIに聞いてみると、「𦚢」このようになります。AIも意味は分かっています。だけど漢字変換出来ないのです。それほど漢字に対して恐れていたGHQ。

何故突然こんな話しをするのかというと美月が書いていたのを見かけて、問いただしたことがある。彼女は不思議な女性だと思っていたのはこの頃からだった。

彼女は直感的かつ合理的に生きてる人物である。私はどちらかと言えば保守的に生きてきた。彼女と私とではまったく真逆の性格と言えるけど、行動や思考など似ているところは多い。

そんな私たち若者が知らなかった漢字を普通に使っていた美月という女性に不思議な魅力を感じる。彼女が何者であるかなんてもはやどうでもいい。美咲と馬が合う人間なんて数少ないと自分で思っているからだ。

私にはないものを持ってる彼女を羨ましく思うことがある。
何でもかんでも保守的な考えの人間は何とも哀れにみえてくる。自分の考えを持ってないといえばそれで終わってしまう。

彼女みたいに自分の考えで瞬時に行動できる人が輝いてみえる。わたし自身、自分の考えで行動してみたいと思ったことがあるのは確かだけど、自信がない。わたしの考えが否定されてしまったら、落ち込んでしまう。そんなことはごめんだ。
いつもわたしは保守的に考えて行動してしまう。

ふぅ…たくさんおしゃべりしたら喉乾いちゃった!
先輩ッ!ミルクティーください!
アンタ、ミルクティー好きだよね?と美咲。
ん?うん!こんな美味しい飲み物ないわよ。

運ばれてきたミルクティーはマイセンのようなティーカップに注がれていて薄い褐色矮星わいせいのような色を放っている。
ティースプーンでゆっくりとかき混ぜるとミルクティーはトルネードして中心に向かうように回ってて、生クリームが溶け合って褐色矮星は、淡い薄茶色になり出した。

そして何とも言えない豊潤な良い香りを放っている。それを見つめる美月はまるで記憶がどこかにすっ飛んでしまっているように見てとれる。

少しは落ち着いたの?美月…と優しく声をかけてみる美咲。
うん、話しを聞いてくれてありがとうね。
何だか急に元気がなくなりだした美月。

大した話しではないように思えても、当の本人には耐え難い苦痛に感じることはあるというものだ。
彼女の気持ちはよく分かる。私だってそうだもの。私は彼女以上にたくさんのお荷物を背負ってる気がする。

そんなふたりのやりとりをジッとキッチンから見つめる菜月の目があった。すると…
はい。これ食べてみて、感想聞かせてくれる?ニッコリと笑みを浮かべて菜月はキッチンから出てきた。

菜月はふたりを元気づけるために甘いスイーツを運んできた。
これ、試作品なの。まだ提供できるような出来じゃないから感想が聞きたいのよ。お願いね。

えッー!先輩ッいいんですかぁ?先ほどまでの元気のなさはどこかに吹き飛んでしまった美月。すでに顔が綻んでいた。
美咲は菜月が私たちに気遣ってくれたことに気づいた。
これは試作品というレベルではないことは食べてみてすぐに分かった。

ありがとうございます…お気遣いに感謝します。
私は少しばかり「しおらしく」なる。
私ったら気を遣わせてばかりで…。私は、いちいち自分に対して否定的になってしまう。

何言ってんのよ。試作品だって言ってるでしょうが。
カラフルなフルーツに囲まれてホワイトクリームであしらわれたパンケーキはこの上ない美味しさだった。またこのパン生地の柔らかくてほんのり甘くてほろ苦さがある。しつこくない甘さはミルクティーとマッチしていた。

美味しいッ!何これ、ほっぺが落ちそう!
美月の言葉に嘘偽りはなかった。
美月は目がニンマリと波打ったようになって、丸くてふっくらとした顔、微笑んだ口元の顔はまるであの「お多福」のようになってる。

菜月が試作品と言ってたパンケーキは素晴らしい美味しさだった。そして2人はすぐに虜になってしまった。
それから、はい。これも飲んでみてね。菜月は涼しい顔をしながら、パンケーキと一緒に野菜とフルーツのスムージーを持ってきていた。

あなた達、あまり食物繊維を摂取してないでしょ?
きちんと取りなさい。近頃の若い子は…と菜月のうんちくが始まった。近頃は大手コンビニでもレジのところに備え付けてある手軽に作れるスムージーとよく似ていた。

はぁーい。ありがとうございます♪先輩ッ
美月はこの上ない幸福を感じてうっとりしている。
美月が化粧室に席を立ったときに、菜月が美咲に声をかけてきた。

「美咲ちゃんには、何が見えてるの?」
菜月から突然、突拍子のない質問に美咲は困惑気味だった。
菜月の質問の意味が、美咲には充分すぎるほど理解できた。

「えッ…?…わ、わたしですか…」
私は菜月さんの質問に言い返しの言葉を詰まらせてしまった。美咲は臆病で自虐する傾向はあるが、勘の鋭さは人一倍持ち合わせている。

黙って俯いてしまった私を見た菜月は、重い口を開く。
「あなたには、まだ何も見えてないようね…そっかぁ。」
菜月は美咲に何かを諭すように呟く。

「まずは自分と向き合うことね。」
帰宅してSNSをチェックしてみた。
イイねしてくれたM3さんが、コメントをしていた。
「がんばッ」たったひと言だったが、わたしにはこの上なく嬉しく思えた。

世の中には口にして良いこと
決して言ってはいけないこと…このふた通りしかない。

うちに帰ってから父親に今日のことを話してみた。すると父から返ってきた言葉だった。
私たち家族は隠し事をしない。ファミリールールというかホームルールは昔、両親が決めたことだ。

お互いに干渉しない。口出ししない。だけど週末は家族で出かけて外食は怠らない。これが守られなかったことは今まで一度もない。何でも話すというルールがある。

父は家の中では物静かな人間だ。だけど、たまに重い口を開いて的確なアドバイスをくれる。父なりの優しさだろうか。

人を傷つけてしまうかもしれないからかしら?
そうだ。君が気にしないようなことでも相手にとっては耐え難い苦痛になりうる。世の中には、いろんななタイプの人間がいる。皆んな同じような性格や行動をするなら分かるがそうではないから人同士ぶつかる。

知らないうちに人を傷つけてしまってることさえある。
君が大したことでないと思っても人によってはすごく気にしてることもあるってことさ。分かるかな?と父の剛志は答える。

逆に嫌でも口にしないといけないこともある。
言ってあげることで相手のためになることだ。
嫌われてしまうかもしれない。
皆んなから除け者にされてしまうかもしれない。

だが、誰かが犠牲になって、諭してあげないと周りは何も変わりもしないんだ。それもまた優しさというものだ。相手への思いやりにも繋がるんだよ。分かるかな?
何だか父は自分に諭してるような感じがした。

ふ〜ん、そんなものかしらね。でももし、嫌われてしまったら?私なら嫌われたくないな。
父は私の視線を感じていたようだが、敢えて逸らしながら話した。

そのときはそのときさ…笑
私なら気にせんけどな。そんなこと。仲間外れ?大いに結構だ。それで相手がよくなるならな。しいては会社のためでもある。父の笑みを久しぶりに見た気がする。

…父さんもいろいろあったんだ…

私はそう解釈した。
 父はごく普通のサラリーマン。都内の会社に勤務して25年くらいになる。母とは恋愛結婚だったと聞いたことがある。
母と一緒になることで母方のご両親に猛反対を受けたらしい。
だけど、父たちは自分たちの茨の道を敢えて選んだ。

2人はよくケンカしていたが、愛し合っていたのは確かだった。言いたいことを言い合える関係って素晴らしいと思う。より良い関係を築けてる証拠だ。言いたくても我慢して言えないのは心に闇が深まってゆく。

母が亡くなってから父はしばらくの間、心ここに在らずといった状態が一年続いていた。父は私の前ではごく普通に生活していたが、私は父が影で泣いていたことを知っている。
娘には自分が弱い姿を見せたくなかったんだと思う。

それから父とどう接していいのかさえ分からずに、私はいつしか成人していた。思春期という年齢でもある。
母のことは、あまり思いだしたくない。なぜなら、これはあとから会社の課長に聞いた話しだが、母はスイミングスクールの講師も兼ねて高校の臨時講師で水泳のコーチをしていたこともあり、学生たちをインターハイ、オリンピックへと導くという目標があった。

わたしが叶えてあげれなかったぶん、そっちに力を注ぎこんでいたため、ほとんど家にはいなかったからだった。わたしは母の期待に応えてあげれなかった。

だから、時折りぶつかっていた時期がある。わたしは、ある一部の「ハッキリした記憶」を消し去ろうとしていた。自分の都合が悪いことは記憶からの欠如というか、問題から逃げてしまう癖が身についてしまっているからだ。忘却というものだ。

母が亡くなったあとは、母の遺言もあり、お墓も仏壇すらない。遺骨は散骨して欲しいという母の希望通りに執り行われた。母は自分が叶えられなかったオリンピックでメダルを獲るという夢を娘のわたしに託したかった。

でもわたしは、そんな母の期待に応えられずに、諦めて背中を向けてしまった。
母は寂しかったと思う。そんな母の気持ちを踏み躙ってしまった。

一年に数回、父がパッタリといなくなることがある。私にも連絡さえなく突然いなくなる。帰ってから追求しても答えを濁されるだけだった。

薄々勘づいていたけど、父はたぶん母の命日と春秋のお彼岸に手を合わせに行っていたんだと思う。
わたしに気遣ってくれてのことだと思う。わたしへの父なりの配慮だったんだろう。

仕事のできる人だけど、生きるのは不器用な人だ。照れ臭いのもあるのか、それとも人知れず泣いていたのかも知れないけど私の知る由もない。

私は社会人になってから自分のことで精一杯だ。父の素行まで気にすることもなく気づきさえしない。

わたしと美月が先輩のカフェでお昼をとった翌日、美月は欠勤した。早朝に美月の携帯から杉山課長に風邪を拗らせてしまったため休む旨の連絡があったらしい。電話越しに辛そうに咳き込んでいたらしい。

あとで私のほうから連絡してみてほしいと杉山課長に呼ばれて伝えられた…のはいいけど、その代わりに私が課長に同行する羽目になった。顧客との会合に出席するため、会社から出る前に美月から連絡があった。あの会合は今日だったのだ。

美咲…ごめんなさい。ただ、このひとことだけだったけど、私はすべてを把握した。あの子ったら…仕方ないなぁ。昨日の話しからよると同行したくない顧客との会合に今から行くらしい。片桐くん今日はすまないね。頼むよ。

…はい。といいつつも、私もあまり気が進まなかった。わたしは美月以上に、この顧客先への挨拶とかイベントのマーケティングとかいうことに抵抗がある。事務要因として、入社したのだが、広報課も請け負うことになってしまう。
やだなぁ…なんで私が。人前でマーケティングの企画などということに。

私自身が、前向きに仕事をやってのけるような経験も乏しいし、前向きな性格ではないからだった。けど、美月の頼みだから「しかたなく」引き受けた。仕事だしね。ここは割り切ってこなそうと気持ちを切り替える。

ところで課長、今日はどちらのクライアントさんに行かれるんですか?得意先に向かう車内で情報を頭に入れておこうと課長に質問していた。得意先とは、私たちの会社と取引している会社からの紹介で引き受けた仕事だからだった。

ああ、今回は最近流行りのスイミングスクールだよ。
…スイミングスクール?
ああ、そうだ。マーケティング戦略をね。うちのイベント会社に企画依頼されてね。君は確かお母さんがスイミングスクールの講師だったそうじゃないか。だから、返って好都合さ。

知ってらっしゃったんですか?
まあね。お母さんのことは承知してるよ。素晴らしいコーチだったし、選手としてもね。

選手…?何の選手ですか?
君は知らないのかね?お母さんは学生時代にオリンピック候補まで上り詰めた実力者だよ。

インターハイでかなり良いところまでいったらしいが、怪我に泣いたんだよ。わたしも学生時代には水泳をやっていたんだよ。だからお母さんのことは知っていたよ。

そうだったんですか…私、知りませんでした。
お父上からは何も聞かされてない?
…はい。まったく。

君は水泳はしないのかね?
言いたくなければ無理に答えなくていいよ。

…いえ、大丈夫です。私は母のような才能はなかったんです。
私なりに努力してみましたが、挫折してしまいました。母がスイミングスクールの講師だったのは知ってましたが、インターハイやオリンピックの選考代表までは知りませんでした。

そういえば、確か母の実家にはトロフィーとかメダルとか見かけたことがあります。あれがそうだったんですね。

そう、気にすることはないさ。君は君なりに君のやりたいこと、進むべき道を歩めばいいじゃないのかね。

そう言ってもらえると心が「少し」は軽くなります。
ははは…まあ、今日は楽にして私のそばについててくれたらいい。君がいるだけで、こっちも気が楽になるというものだ。

【課長は良い人だ。美月はなんで苦手意識があるのだろう】
こんな私が課長の気を楽にさせてる…なんてね。課長が気遣いして言ってくれてるんだろうな。大人だからね。課長は考え方がね。「それに比べて…」

ん?どうかしたのかな?片桐くん。
あ、口にしてましたか?私…。すみません、つい。
いえ、課長のような大人な男性から、付いててくれて頼もしいなんて、言われたこと。私、産まれてこのかた一度もなかったものですから…。

どうやら…「それに比べて」とは君の口癖のようだね。
片桐くんさ、人は出来なくて当然なんだよ。何でもかんでも100パーセント出来る人なんて、この地球上に存在しないし、出来るはずがない。そんな人間がいたらわたしが拝んでみたいものさ。

なぁ、片桐くん。すべてをひとりでこなそうなんて土台無理な話しさ。物事の視点を変えてみたらどうかね。

…物事の視点?…ですか?

ああ、そうだ。60パーセントから70パーセントくらい出来ればいいや…みたいに軽い気持ちで考えてトライしてみたらいい。

課長は簡単に言いますけどね。
そんなにうまくいくはずがありませんよ。

それだよ!それ!君の悪いところだ。
何でもマイナスな面から考えてしまう。いけないな。物事はすべてプラス思考から考えてみてはどうかな。分かるかな?

はぁ…何となく。「やってみます…」

違うッ!やってみますじゃない。「やる」んだよ。いいね?

ははは…ゆっくりでいいさ。気楽にな。気楽に。
さぁ行こうか。
ハイッ!いきましょう!

何だか課長に勇気づけられたようだ。情け無い。
課長からお叱りを受ける…いや、叱責されるならともかく人生のアドバイスを受けるなんて光栄だった。

上司に向かってお叱りとか叱責なんて言葉も使うもんじゃないと美咲は思った。本来なら勉強させていただきます。というべきではないのか?

美咲は久しぶりにスイミングスクールに足を運んでいた。
何だかとても新鮮な空気を吸ってる気分だった。
何年ぶりだろう…あの日以来かも知れない。

臆病になっていた…怖くてたまらなかった。もう二度と来ることはないだろうと思っていた場所に、今立ってる自分が信じられない。記憶の欠如からくる忘却。急に当時のことが思い出されてくるようだ。

生徒さんは学生さんから高齢者まで幅広く会員も多数いるようだった。近頃入会者が減りつつあるのは、ある原因がある。

複合施設や温水プールなども完備したスパリゾートに客足が伸びつつあるからだ。とくに、カラオケやネイルサロンまで取り揃えたトレーニングジムに人気が出ているためである。

分かりました。企画の方はこちらでいろいろと考えてみますので、後ほど企画書を送りますので、その中からご検討ください。

片桐くん…ちょっといいか。
はい…?なんでしょう?

こちらの水城さんはお母さんの美沙さんの知り合いらしい。
え?母の…ですか?
水城さん…うちの社員の片桐美咲くんだ。

まぁー、美沙の?お母さんにそっくりね。何だか懐かしいわ。
お久しぶりね。美咲ちゃん…お元気そうね。

私をご存知なんですか?

知ってるも何も私はお母さんと同期で一緒にインターハイを目指してたのよ。あなたがこんな小さなときにここによく来てたわよね?覚えてる?

は、はい。まだ幼い頃に来ていた微かな記憶しかありませんが。まさか、ここが…?

ええ、お母さんがコーチしてたスイミングスクールなのよ。
お母さんがいた頃は、会員が溢れるくらいにいてコーチが足りないくらいだったわ。学生たちをインターハイ、オリンピックに送り込もうって、意気込んでいたっけ。

だけど…。水城は、それ以上のことを口にするのを躊躇って言葉を失っていた。

まさか、課長はご存知だったんですか?このことを。

ああ、一応な。だから初めは美月くんに同行を頼んだんだけどね。彼女の一方的な推薦があってね。君に是非お願いしてほしいと。

そうだったんですか…美月…。

美咲はすべての状況を飲み込めた。あの子…わざとだったのね。

まぁ、そういうなよ。君のことを考えてのことだ。

しかし…あんまりです。私はまだあのことから立ち直れていないのに。残酷です。お母さんのことだって。思い出したら今でも胸が苦しくなります。私がこうなってしまったのも、あのことが原因だし。

なぁ。片桐くん、そろそろ向き合ってみないか?
いつまでも逃げたりしないで。君の苦しみから逃げたくなる気持ちはよく分かってるつもりだ。

フィールドは用意してあげた。あとは君が決めることだ。
無理にとは言わない。美月くんにも企画のことは振ってある。

はい。少し考えさせてください。

家に帰宅してから美咲はベッドに重い身体を投げていた。うつ伏せになって顔を枕に押し付けている。

美月には連絡はしなかった。課長には連絡しておいてくれとは言われたけど、そんな気分になれない。

美月くんは君を思ってのことだ。いいね?責めたりしないようにな。

課長にはああ言われたけど。明日から美月とどう接したらいいのか。

翌日、美咲は会社の入り口で中に入ろうか、入るまいか迷っていた。美月、もう出社してるかなぁ。何だかやだなぁ。

私まだマーケティングのこと、何にも考えてない。
昨晩はあまり寝付かれなかった。無理もない。

私なんかが出来るだろうか…上手くやれるだろうか。
何かいきなり大きなプロジェクトを任されて、こんな時お母さんならどうするだろう。

美咲は壁に打ち当たるときに、必ず母を連想する。
お母さんならどう対処するだろう?とね。

ええぃ…どうにでもなれ!美咲は自分自身に気合いを入れて会社に入っていった。

美咲はヘタレな性格をしているため、準備に時間がかかって、あとあとパニクらないように何をするにも15分前倒しで行動、出勤など出かける場合も1時間早く出る性格をしている。

ある芸能事務所の社長さんも自身の著書に記述していることを実践しているのを先日、近くの本屋で見かけた。それを見たため、自分が今まで行なってきたことに間違いないと思って自信をつけたのだ。

何かトラブルやミスを犯してしまったときも、人より1時間早く出勤するくせが身に染みていた。
その方が多少は気持ちが軽くなることを知っている。

学生時代も試験のときは、誰もいない教室に早めの登校をしてひとり勉強したものだ。

会社に入ると美月がすでに出勤していた。
美月は美咲の顔を見かけると近寄ってきた。

美咲ぃ!昨日はごめんね…体調悪くしちゃってさ。
美咲は、課長が昨日の件に触れていないことにひとまず安心した。

いいんだってば!気にしないでね。
それより身体は大丈夫なの?

うん、1日ぐっすり寝たら回復したよ。ありがとう気にしてくれて。美月の言うことに嘘はないようだった。
顔つきを見れば分かる。

ところで…昨日のクライアントさんの件、美咲に任せてもいいかな?

…きたッ。私が触れないようにしていたことをこの子ったら。
ん?う、うん。少し不安だから考えてるんだよね。

すると、表情を一転させた美月の顔つき。

…何それ?一度引き受けたものは最後まで責任もってくれないかしら?

美咲は顔を引き攣らせて下を向いて黙り込んでしまった。
…ど、どうしたんだろう。今まで美月がこんなに突っかかってくることなんて、一度もなかったのに。

アンタ仕事ヤル気あんの?

え?な、何?どうしたのよ?そんなに怒って。

仕事ヤル気ないなら辞めてしまえば?

そんな言い方しなくてもいいと思う…もう、もういい!
アンタなんか嫌い!
美咲は涙ぐんで会社から出て行こうとした。

気分悪くて、早退ですか?仕事もまともに出来ないようなら帰って泣いてれば?と美咲の背中越しに追い打ちをかける。

ひ、酷い…酷い…あんまりよ。あんな言い方しなくても。
あんなキツい子じゃなかったのに。

私って、そんなにダメなの?入り口で振り返って美月のほうを見ると背中を向けていた。優しくしてくれて止めてくれると思ってた私がバカだった。

美咲は美月のことが分からなくなった。私がマーケティングや論説することなんて苦手なの知ってて。嫌味?嫌がらせ?
何なの…あの女。

美咲は、課長に連絡して今日は早退することにした。
このまま、家に帰りたくない…でも頼れる彼氏なんていない。
別れたばかりだし…今更連絡なんて出来やしない。

私、明日からどうやって出勤したらいいのよ…
お母さん…お父さん。
その時、メールが一件通知が鳴った。

誰?まさか美月?バッグからスマホを取り出すとメールを確認してみる。直人?スマホの待ち受けのメールに元彼から連絡があった。

「美咲、元気か?」

美咲は、込み上げてくる涙を抑えきれずに溢れ出していた。
今の美咲にとって、救いのメールだった。

直人…直人…助けてよ。私を…私、どうしたらいいの?

「どうした?美咲、何かあったの?」

1時間後に、美咲は直人と合流して近くのカフェに行った。
あのパームツリーという美月の先輩の店だった。

あら?美咲ちゃん?今日は美月と一緒じゃないのね。
どうしたの?そんなに泣き腫らして。ま、彼氏さんに慰めてもらいなさい。

直人は菜月に軽く会釈すると美咲の肩に手を置いて、窓際のテーブル席に座った。

ふ〜ん。美月ちゃんがねぇ。

そうなのよ。美月の代わりにピンチヒッターで課長の付き添いに同行したのに、あんな言い方ってなくない?何なの?あの女。もう絶交よ!

俺は君たちの会社のことは分からないし、ふたりの仲もよく知ってると思ってるけど。

そこへ菜月がミルクティーとブラックコーヒーを運んできた。
はい…どうぞ。

菜月さんありがとうございます。

ふたりは会釈した。そして、菜月はトレーを前に持つと話しだした。

美咲ちゃん…あの子はね。本当に気を許した人じゃないとそんなキツいことは決して言わない子なの。

だからって!あんな言い方なくないですか?

美咲ちゃん…あなたは今試されてるのよ。

私が…ですか?

そうよ。あなたの力量が試されてる。人はね。困難にぶつかったときこそ、今以上に伸びるためのチャンスなのよ。

それをバネにして成長できるか出来ないかは、あなた次第なのよ。美月はそれを分かっててわざとあなたに辛く当たったんじゃないかしら?

あのね…言われるほうよりも言うほうは想像以上に辛いのよ。好きなのに大切なのに、嫌われ役を買ってでることで、本当に嫌われてしまうかもしれない。

だけど、あえてあなたのことを思って、辛いのを我慢して言ったんだと思う。

今頃、あの子…泣いてると思うわよ。
あなた達を見てるとまるで姉妹みたいで仲良くて羨ましいくらいにね。

私にはそんな人がまだ現れてないから…大切にね。
美月のこと…よろしくね。美咲ちゃん。

菜月さんの言うとおりだよ。美咲。

え?直人までそんなことを…

だって、俺は美月ちゃんから連絡を受けたんだよ。
美月ちゃんには、美咲が傷つくかもしれないから言わないでって言われたんだけどさ。

たぶん今ごろ美咲が泣いてるだろうから話しを聞いてあげてって。連絡が来たんだよ。

み、皆んなして…皆んなして私を…もういい!
美咲はミルクティーに手をつけずに出て行ってしまった。

あッ!美咲!直人は声をかけたが、美咲はいなくなってしまった。

何してるの?あなたは。早くッ!追いなさいよ!男でしょ!
グズグズしてんじゃないのよ!行きなさい!こんなときはそばにいて、ついててあげなくてどうすんの?

…だ、だって俺たちは、もう…

…ッたく、しょうがないわね。皆んなだらしないな。

でも、本当。
人は乗り越えなければいけない壁が人生で必ずぶち当たる。

力量が試されるのもそこにある。

さぁて、あの子がどう動くのか…。

なんだかんだ言いながら美咲ちゃんったら、美月が好きなミルクティーを注文してるんだから。素直じゃないのよね。

着いてこないでよ!もうあなたとは関係ないでしょう。私たち別れたんだから。着いてこないでったらッ!

なあったら…ちょっと待てよッ!数メール離れた場所から直人は美咲のあとについて歩いていた。

あんたなんか…嫌いよぉ…。美咲は立ち止まって両手を顔にして俯いて泣き出した。そのまましゃがむと疼くまる。

直人は、そっと上着を美咲の肩にかける。すると、美咲は立ち上がり、直人の胸に顔を埋めると泣き出す。

しばらくでいい…このまま抱いてて…今日だけでいい。

自宅の帰路に着いた美咲は、父親がまだ帰宅していないことに気づく。父さん…まだ帰ってないのか。

なぁ…俺たちまたやり直さないか?美咲。

美咲は帰り際に直人から言われたことが頭を過ぎる。
これ以上、私を悩ませないで。苦しめないで。

少し考えさせて…私、今それどころじゃない。頭の中は仕事のことや人間関係で頭がいっぱいなの。

壁を乗り越えるような気力なんて…今の私にはない。 
まるで、私が悪いみたいじゃない…これじゃあ
何なのよ、皆んなしてわたしを。 

大人になり社会に出れば、避けては通れない。必ずぶち当たる関門に美咲は直面している。

誰だって人から嫌われたくない。
人の防衛本能があるから故にお茶を濁して、自分の気持ちを誤魔化してその場凌ぎの嘘をついたり、自分を貶めたりする。

それは人がこの世に産まれてきたときから始まっているのかもしれない。嫌われることを知ってても言わなければならないこともあるし、その人のためでもある。

優しさというものを履き違えてる人間は多い。それにすぐに気づいてくれれば、苦しむことは少なくなるだろう。

しかし、実際には長い月日と年月を要してしまう。気持ちを切り替えることなど土台無理に近い話しなのだ。

美咲は引きずったまま翌朝を迎える。

何だか気が重いなぁ…。

まぁあまり気にしないことだ。細かいことをいちいち気にしていたら身が持たないぞ。

なんてことをお父さんは、家を出るときに言ってたけど…。
気にしない方が神経どうかしてるわ。
よほど図太い人間か鈍い人間よ。私は神経質で繊細なの。
すぐに気にしてしまうし、ヘタレだし。臆病な人間。はぁ…

おはようございます…。美咲が出勤し挨拶を交わす。会社の人間は皆んな普段と変わらないように見える。

しかし、美咲にとってみればコソコソと耳打ちして内緒話を皆んながしているように見える。

皆んな、私がクライアントさんの企画のことを噂してるんだわ…。何だか、仲間はずれされてるみたい。あッ…美月。

仕事だし声かけないわけにいかない。ここは割り切らないといけない。いつまでも学生の気分のままじゃあいけない。

おはようございます。美月さん、
お、おはよう…

美月は美咲の態度にかえって困惑している様子だった。
おそらく出勤してくるとは思わなかったんだろうし、声までかけてくるなんて想像してなかったんだろう。

あれから美咲と美月の間には変な空気が漂うようになっていった。
現実の世界とは何とも皮肉なものだ。
昨日までの親友が今日の敵になりうる。逆の諺なら聞いたことがあるとふたりとも同時に考えていた。

昨日までの敵は今日の友。

その日からふたりは一緒に昼休みを共にすることはなかった。辛いのはふたりとも同じであろう。

美月の気持ちに立ってみれば、「あんなこというんじゃなかった…」と思わざるを得ない境遇だが、彼女は実にサッパリした性格で、起こってしまったことは仕方ないと楽観視するところがある。

美咲は追い込まれると逆に火がついてしまう性格は、やっぱり母親に似たのだろう。

美咲の母親の美沙は、生まれついてのアスリートの気質を持っていて、人には絶対に負けたくないと思っていた。

それに彼女、美沙の母親…つまり美咲の祖母から幼い頃から教育されてきた。

祖母は厳しい人だったと聞いている。
朝は早く夕飯も夕方の17時には済ませて19時には消灯だったらしい。

美沙の兄もイギリスのオックスフォード大卒業のエリートだ。そんな祖母の教育を受けてきた美沙の血が美咲にも受け継がれている。

美沙は幼い頃の美咲に、よく言っていたらしい。

「あなたはあんなことを言われて悔しくないの?何クソって気持ちが込み上げてこないの?今に見てなさい!と思うようにしなさい!」

そんな母親から言われたことを美咲はすっかり忘れていた。
昨晩、母親からもらった手紙をたまたま整理していたら発見したのだ。

美咲が壁にぶちあたっているときの母親からの助言なんだと母親に感謝していた。

そういうこともあり、昨日とは別人のような美咲がいた。
顔つきの変わった美咲を見て美月は驚いていた。

しかし、仲直りすることはなかった。
悲しい現実がそこには存在していた。

仕事を終えて帰宅すると海外で仕事をしている兄の義也が帰省していた。

兄さん…久しぶりね。元気そうじゃない!

兄の義也は溌剌としていて活気溢れる仕事人間といった風貌だった。
おまえもな…どうだい?仕事の方は順調じゃないような話しを父さんから聞いたよ。

父さんが?まったくお喋りなんだから…父さんは。

まぁ、そう言うなよ。父さんだってあまり顔には出さないが、おまえのことを誰よりも心配してんだ。

そんなことより、兄さんってこの時期になったら必ず帰ってくるわね?どうして?

ああ、そのことか…それはな。

兄の話しによると、母親に手を合わせに来ていると初めて聞かされた。

そんなこと…私知らなかったわよ。
何で言わないわけ?私だけ仲間はずれ?私だって家族なのよ。

まぁそう言うなよ。だって、おまえは…。
話しを途中で中断したが、続けた。

おまえも成人して立派に社会人になった。そろそろ、どうだ?もう自分を責めるのはやめろよ。あれは仕方なかったんだ。な?

おまえ、以前に父さんからペンダントもらったことがあったろ?覚えているか? 

ああ、そういえば…昨日部屋を整理していたら、昔しまっておいた古い箱が出てきたの。

その中にお母さんからもらった手紙とかたくさん入ってて、それと一緒に入ってたわね。
それが?なに?

ちょっと持ってきてくれないか?そのペンダント。

ん?うん。ちょっと待ってて。確か、この辺りに…ああ、あった。兄さん…これ。

美咲は、以前父親からもらった円柱をしたシルバーのペンダントを義也に手渡した。

おまえさ、これが何だか分かるか?

父さんがくれた普通のシルバーのペンダントだけど。何なの?

そろそろ言ってもいい時期だろう。これはな。こうして開けるんだよ。やってみな。

美咲は義也に言われた通りに円柱を回して開けてみた…
すると。美咲は中を見た瞬間に込み上げてくる感情を抑えきれずに涙が溢れて止まらなくなった。

か、か、母さん…。お母さん!

ペンダントの中には、母親の美沙の遺骨の一部がガラスケースに収納されていた。

そうだ。母さんの遺骨だ。おまえが成人したら伝えてほしいと父さんに言われていたんだ。おまえが社会に出て壁にぶち当たるときが、必ずある。その時に伝えてくれと。

「自ら身を挺しておまえを守って亡くなった母さんの遺骨だ」

だからもう忘れるんだ。いつまでも自分を責めたりするな。
あれは仕方なかったんだ。事故だったんだ。
思い出したくない気持ちは分かる。

だから思い出さないように、おまえは自らの記憶の片隅の奥にしまい込んで心に鍵をしてしまった。

に、兄さん…

父さんも古いタイプの人間だ。恥ずかしくて自分の口から言えないらしい。会社では老害扱いされてるらしいぞ。笑
まあ、そんなところだ。分かったな。

それは分かったわよ。だけど、兄さんって母さんに手を合わせにって、どこに?うちにはお墓もない、仏壇もないのよ。

ああ、それか。おまえさ、父さんがある日突然いなくなることは知ってるよな?

ええ、私には何も告げずに突然。いったいどこに行ってるのよ。兄さんは知ってるの?

ああ。俺は知ってる。ついて来いよ。
一昨日、父さん帰りが遅かっただろ?

そういえば…いったい何があるって言うの?

ま、ついて来い。

私は兄さんが借りてきたレンタカーに乗り込み、県道を海に向かい走らせる。どれくらい走っただろうか。突き当たると眼下に海が見えた。ここは…。

海沿いの小高い丘に芝生が綺麗に整備された場所に墓石がたくさん並んでいた。お墓?お墓!

いや、そこじゃないんだ。こっちだ。
並んだ墓石を見守るように建物が立っていた。白い建物だった。まるで教会のようにも見える。

ここはお寺ね?

ああ、こっちだ。兄さんの後についていくように静まり返った冷えた廊下をゆっくりと物静かに進んでいくと、何やら金庫室のような場所が現れた。

あ…合同墓地。合同墓地ね?ここ。

ああ。そうさ。兄さんは目の前にある施設の機械を操作してある合祀墓から母さんが眠っているお骨を出した。

そこには…。母さんの骨のほとんどは、散骨したのは覚えてるだろ?だけどな、ある一部はここに眠ってる。

私はそれを見て涙が溢れでてきて、思わず手を合わせてしまった。

母さんの喉仏…。

それはまるで座禅を組んだ仏様そのものだった。
当時、父さんは母さんから「私が亡くなったときは、骨はすべて散骨してください」と生前から言われていたらしい。

父さんは母さんと出会った頃に、言われたらしいんだよ。
おそらく母さんも父さんも出会った瞬間に感じたんだろう。

この人と一緒になる…とね。直感というか、第六感だろう。
俺にはよく理解出来ないが、前世からの繋がりのある人と出会った瞬間に感じるらしい。

だけど…父さんは火葬が終わったときに骨壷に骨を入れるんだけど、大きいと嵩張るから全身の各部位を選んで小さい骨壷に収納したんだよ。

それで、散骨業者に骨を輸送する際に、どうしてもこの喉仏だけは、散骨したくなかったらしい。
何かを感じ取ったんだろうな。

それに、おまえは覚えていないだろうけど、火葬が終わったときに親戚一同がいる前で父さんは、突然ある骨の一部を皆んなの前で取ってポケットに入れたんだ。

それは父さんは今でも大切に持ってる。
いつか父さんに見せてもらえ。

兄さん…。今日はありがとう。私ね…私、決心がついた。
仕事も恋愛も…がんばってみることにする。じゃなかった。
がんばるわ。先日、課長に言われたこと忘れてたわ。

なんて言われたんだ?課長さんに…。

やってみます…って言ったら、課長は
違うッ!「やってみます」じゃない。「やる」んだよ。

…なぁんて言われたんだよね。私、あのときと変わってない。と思ったんだよね、今。
だから…がんばるッ!

そうだ!そう意気だ!無理しようとせずに、おまえのペースでいいんだよ。肩の力を抜いて楽にして。な?
うん、ありがとう!兄さん!

片桐くん。どうかな?何か企画案は出来たかな?
はい。私なりにまとめてみたんですがたくさんありすぎて、どれを選んだら良いものかと悩んでます。

とりあえず今度の社の定例会で、発表してみてくれないか?
そのまえにちょっと私に見せてくれるか?

今ですか?はい…分かりました。これなんですけど。

企画書 :  広報課 片桐美咲

新しいスイミングスクールの企画として、以下のようなものを提案します。これらのアイデアをスクールの企画として取り入れようと考えています。

1.	親子参加プログラム

親子で参加できるスイミングクラスを提供。親と子が一緒に泳ぎながら、スイミングの技術を学ぶだけでなく、親子の絆を深めることができる。

2.	水中フィットネス

大人向けに、水中で行うエクササイズクラスを開催。水の抵抗を利用して、関節に負担をかけずに全身の筋肉を鍛えることができる。

3.	アクアゾンビサバイバル

ホラー要素を取り入れたアクティビティ。参加者がゾンビに扮したインストラクターから逃げながら、様々なスイミング技術を駆使してコースをクリアする。

4.	プールサイド図書館

プールサイドに小さな図書館を設置し、休憩時間にリラックスして読書できる空間を提供。水泳の合間に知識や趣味を楽しむことができる。

5.	エコスイミング

環境保護をテーマにしたプログラム。水中でのクリーンアップ活動やエコフレンドリーなスイミング用品の紹介などを行い、環境意識を高める。

6.	バーチャルリアリティスイミング

VR技術を利用して、実際のプールでは体験できない場所でのスイミングを体験できるプログラム。例えば、海の中や宇宙空間で泳いでいるような感覚を味わえる。

7.	水中宝探し

子供向けに、プール内に隠された宝物を見つけるゲームを実施。スイミング技術を駆使して、宝を探し出す楽しみを提供。

いかがでしょうか…課長。

うん。君なりにがんばって考えたようだな。あまり寝てないんじゃないのか?目が真っ赤で充血してるよ。

いえ、私なんて人の倍…いえせめて1.5倍は仕事の量をこなさないと皆さんについていけないものですから。

そんなことはない。わたしは知ってるよ。君が1時間も早く出勤して会社の清掃をしていることも。家庭に仕事を持ち込んで寝る間も惜しんで仕事に取り組んでることもね。

課長…知ってらしたんですか?

当たり前だろ?何年管理職をしてると思ってるんだよ。
部下のことは把握してるつもりだよ。ちょっとしたことさ。
よく人を観察してると分かるものさ。君にもそのうちに分かってくるようになるさ。 

そして会議の当日…
うーむ。そうだねぇ。皆んなの意見を聞いてみることにしようじゃないか?よく考えてくれてることは認めよう。だが…

なんだかイマイチ新鮮さに欠けるというか、どれもありきたりでどこかのスクールでもすでに実施されてるような企画ばかりなんだよね。他の人はどう思う。

…社長にそう言われて反発するような人は誰ひとりとしていなく概ね企画は却下されてしまった。

何だか…課長、わたし自信無くしました。あれだけ考えたのに。君の努力は社長も認めてくれてると思うよ。

あと一捻り何か…こうインパクトのあるような。

多目的なことができる。また会員なら自由に使えて若い女性や女性会社員受けするような企画が欲しいところでしょうか?

まずは、ターゲットを絞ってみることだな。
それにうちの会社も経費はあまりかけられない。イベント会社はこの前のウイルスの大流行でどこも会社を閉めてしまったところばかりだ。広告にお金をかけてる余裕すらない。

これ以上の企画なんて私には無理です。
皆んな頭が良い人ばかりで、天才肌の人くらいしか素晴らしい企画のアイデアなんて作れません。
私なんて凡庸な人間なんです。土台無理な話しだったんですよ。

「ふざけんじゃないわよ!」

突然怒鳴り出したのは、美月だった。

簡単になんでも「天才」なんて言葉で片付けないで!
そんな言葉を使ったらそれで終わりなのよ!

それ以上に進めずに立ち止まるだけ。試合放棄よ。
バカにすんじゃないわよ!

皆んな…皆んなね、人並み以上に見えないところで努力を積み重ねて成功を自ら掴んでるの。

アンタだって、人の知らないところで努力してたじゃないの!
それなのに…それなのに…

「絶対に諦めないで!決して諦めないで!」

はッ…!美咲の脳裏に思い出される幼い頃の忘れていた記憶
美月…あなたはいったい…。

あれだけ…あれだけ言ったのに…。

もうわたし知らない!美咲なんて知らない!アンタなんか絶交よ!美月にそう言われた美咲は泣きながら、会社から外に飛び出していった。

そして急に道路に飛び出していったために、走ってきた車に跳ねられてしまった。

きゃぁー!美咲!美咲ぃ!

静まり返る建物内は、薄暗くて機械の音が鳴っていた。
集中治療室に美咲は寝かされていた。 

ガラス張りの室内を外から見ていたのは、美咲の父親と兄の義也と元カレの直人その中に美月の姿もあった。

お父様ですか?そちらは?お兄さん?
はい…。ちょっとご家族だけ来ていただけますか?

美咲の手術をした医者は医療用のゴムの手袋を外して二人を別室に招き入れた。

今夜が峠になると思います。出来る限りの施しはしておきました。あとは、彼女の生きようと思う精神力だけです。
最悪の場合も覚悟しておいてください。

そのとき私は夢を見ていた。どこかを彷徨っているようだった。ここは…?私…死んだのかしら?

目の前にはトンネルが現れた。このトンネルは?
トンネルの入り口には鬱蒼と林が生えていて入り口は暗い。

入っていいのかしら?

すると、定かではないがうっすらと暗闇に目が慣れてきて、トンネルの先のほう…10メートルか15メートルくらいは離れていようか。先の方に人が見える。

お、お母さん?ねぇ、あなたはお母さんなの?
私は見た瞬間にその人がお母さんだとすぐに分かった。

しかし、お母さんと思しき人物は何も答えない。
なぜなら口がないからだった。それどころか目、鼻さえ無かった。無いというか見えなかったが、まるでのっぺらぼうのようだ。しかし、不思議と怖くない。

その人はただ立っているだけだ。その人の後方の遙か先のほうに光りが見える。あれは…出口かしら?

そしたら、向こうには行ってはいけないような気がした。
その人はそう言ってるような気がした。

その日はいろいろな夢を見ていた。

あッ…あの子は。私が一人で公園で遊んでいる。そばには見覚えのある顔があった。あの子ね。

小さい頃は、よく遊んだっけ。懐かしい。私はふわふわと上空から見下ろしていた。その子の顔は美咲の見覚えのある顔だった。あ、あれは…あの子は。

美月…美月ッ!

彼女は幼い頃の美月だった。美咲は涙が知らないうちに溢れていた。美月…美月だったなんて。温かい涙は溢れんばかりに止めどもなく流れる。

私は、幼い頃に美月に言われて約束した言葉を思い出した。

「絶対に諦めないで!決して諦めないで!」

ごめんね…ごめんね、美月。私、あなたと幼い頃に約束した言葉を忘れてた。

私が見ているのは走馬灯…なのかしら? 

忘れていたことが映画のように脳裏に次々と蘇ってくる。
まるで頭の中の引き出しをひとつずつ開けているようだ。

中学の頃、失恋して悲しみのどん底にいたときにクラスメイトに慰めてもらったっけ?あの子なんて名前だったのか…。

しかし、姿カタチこそ違えど、そのオーラは美月そのものだった。高校生のときも…母さんが亡くなったときも…。カタチを変えていつも美咲を見守っていたのは、美月だった。

私の記憶の旅の走馬灯の中の美月は、私に近寄ってきた。

美咲ぃ!パフェ食べに行こう!
パームツリーでミルクティー飲むんだー私。ははは…。
先輩ぃ!パンケーキ!パンケーキ!

美月…あなたは、いったい何者なの?ねぇ…

美咲…美咲…まだ思い出せないのね。

私はね…あなたの守護霊。あなたのおばあちゃん。

あなたをずっと、見守っていた。

あなたはまだ死んではいけない。

この先から進んではいけない。

あなたにはまだ果たさないといけないこと。 

やるべきことがある。分かるわよね?

そう言うと、美月は溢れんばかりの笑顔でニッコリと微笑んで、話し出した。

ごめんね。ごめんなさい。あなたをずっと見守ってきたのに。 あんなことに…。でもね、悪気はなかった。

あなたを勇気づけて、元気にしてあげて、人間としての成長を促すこと。それが私の務めだったのに。

あなたとずっと一緒にいたかった。いつまでも一緒に思い出を作って生きたかった。笑って、泣いて、喜んで、悲しんで、ときにはケンカしたり。でも、もうそれも叶わなくなる。

なんで?仲直りしようよ?美月。わたし怒ってないよ。
なんでそんな悲しいことを言うの?わたし寂しくなるじゃない!

ダメ…それはいけないこと。もう叶わないこと。

わたしは罪を犯してしまった。

あなたを守るという務めを果たすどころか、死の淵を彷徨っている。わたしはわたしの役目を果たさないといけない。
だから…

今までありがとう…あなたと一緒に過ごせたこと。
一緒に楽しんだこと…絶対にわたしは忘れない。
これからも…

じゃあね…バイバイ美咲…

美月は、そう言うと美咲の体内にスゥ…と重なっていった。

ハッ…。美咲!美咲!先生!美咲が目を覚ましました!
誰かぁー!先生を呼んできて!

私、どうしていたの?今まで…。
美咲は一部の記憶が欠落して気がついた。

周囲を見回して自分が病院にいるということに気づいた。

良かったぁ…気がついて。大丈夫か?平気か?美咲。

父さん?兄さん…直人まで何してんの?

おまえは、会社のまえで車に跳ねられて事故って3日間、死の淵を彷徨っていたんだよ。

3日?…私、夢を見ていたような気がする。

夢の中で誰かが語りかけてきて、だけど思い出せない。
誰か大切だった人のような…考えると頭が痛くなる。 

朧げな記憶しか思い返せない。考えすぎると頭痛がした。
あれは、誰だったんだろう。

それから数日は経過観察で病院で過ごしたのちに…
美咲は無事退院して自宅に戻った。

自宅では父親と兄が部屋の整理をしていた。
2人とも何してんの?

あ、美咲か、部屋の整理だよ。おまえも退院したし、俺もそろそろ向こうに戻らないといけないからな。
おばあちゃん家を片付けることもあったから今回帰省したんだよ。

…これは?

美咲が目についたの古ぼけたアルバムだった。
ずいぶんと古いアルバムね。これ。

ああ、それか。それはおまえのおばあちゃんのアルバムだ。

おばあちゃん…

あッ!美咲は何かに気づいたように、スマホの写真アプリを開く。すると…

ぱッ…ぱッ…ぱッ…ぱッ…ぱぱぱぁー!と写真が一斉に削除されていく。あ、あ、ああ!何で?

まるで美咲の記憶から何かを消し去っているような気がしていた。最後の一枚になったときに美咲はタップして止めると…

涙が溢れ出して止まらなくなる。

何でだろう…涙が止まらない。
忘れてはいけない誰か…だったような気がする。

そこには、美咲と見知らぬ女性が笑顔で頬を寄せ合ってカメラに向かいふたりでハートマークを作って自撮りしてる姿があった。

み、み、美月…?

人間は決して忘れてはいけないことは、脳のどこかの片隅にひっそりと置かれているのかもしれない。

この指を離すと消えてしまう。もうその女性の顔が2度と見れなくなる。最後の一枚は別れを告げるようにサァ…と消滅していった。

お嬢さん…どうかしたの?そんな悲しい顔して…
美咲は退院して仕事復帰していた。

そして、ひとりでお昼休みに近くのカフェに来ていた。
マスターの女性が声をかけてきた。

分かりません。私、覚えてないんです。何かを。
何か私にとってかけがえのない大切なもの。

そう…。でも、あなたがそんなに大切だと思っていたならきっと、巡り巡ってまたあなたの前に現れるはず…きっとね。

そうでしょうか…

ええ、信じてみることね。何にする?ミルクティー?
え?何で私が飲みたいものを知ってるんです?

そんな感じがしただけよ。うふふ。
女性マスターは美咲を、ジッと見つめていた。

この世の中には口にして良いことと、決して言ってはいけないことのふた通りしかない

美咲が担当していたイベント案件は、別の女性担当者の企画で行なうことも決まっていた。その女性は見知らぬ誰かだ。

美咲の企画も取り入れられていてクライアントさんにもOKをもらえた。

私、スイミングスクールに通ってみようと思ってます。
今回のイベント案件で、またやってみたくなったんです。

誰かが私の背中を押してくれたような気がします。

そうか…片桐くん。まあ、あまり無理しない程度にな。
趣味程度に抑えておくといい。
始めからガッツリやることはない。いいね?

はい、お気遣いありがとうございます。課長はとてもお優しいですね。奥様が羨ましいですよ。

そうかぁ?何だか照れるな、若い女性社員からそんなこと言われたら。課長のような人格者の下で働かせてもらえて光栄です。

おお、そうだ。今日新しく中途採用の社員が来るんだよ。
先日退職していった女性社員の穴埋めに採用したんだ。

そろそろ来る頃じゃないかな。彼女も君のように出勤も早いらしいから。

あ、きたらしい。紹介するよ。
あ、北川くん、ちょっといいか?

片桐くん…こちら今日から配属になった北川月美くんだ。

「はじめまして!」

あのぉ…どこかでお会いしましたっけ?

忘却のカタルシス〜fin

今年開催されるnoteの創作大賞に応募する予定の作品です。
とりあえずここまで執筆したので掲載してみました。
下書きに戻す予定ですので、ご了承下さいませ。

#創作大賞2024

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