母から監督へ その11(命がけの覚悟)

これまで幼少期から結婚、出産までをお伝えしました。
かなりハードな人生でしたが、今回は命がけの覚悟を決めたお話しです。
ぼくゼロの母は、なぜ子供からのカミングアウトに動じなかったのか?
主人公の母くみちょ。の謎に迫る生い立ち編。

相変わらず機嫌のいい時と、悪い時の差が激しい父。
5番目の母は断酒会に参加したり治療も続けていましたが一進一退の状態でした。

細々としたことを書いていくとキリがないので、大きな出来事だけ。

1996年の5月、夕飯を終えてのんびりしている私たち家族の所へ、鬼のような顔をした父がやってきて、いきなり元旦那を怒鳴り、殴りつけました。
なぜ殴られなければならないのか、全く理由がわからなかったのですが、上の子が私の実母の家に行った時のことが原因だったようです。
父は殴ったことで、気が済んだようですぐに機嫌がよくなり、ビールを持って「悪かったな」と元旦那と飲み始めました(もう意味不明です)
私は元旦那に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

その年の9月、今度は父が包丁を持って来ました。
元旦那に向かって「てめえ、ぶっ殺してやる」と凄んでいます。
私は子供達を隣の部屋に避難させ、元旦那の前に立ち、父に「やめてよ!」と叫び、両手を広げて元旦那を庇うように立っていました。
その時は、実の娘である私を切りつけることはないだろうという思いがありました。
隣の部屋では空雅(当時はその名前ではなかったけど)が大声で泣いていました。
「お母さん、吐いちゃった」と上の子が私を呼びました。
あまりにも泣きじゃくり、しゃくりあげているので、気管が詰まったら大変だと思い、私は迷いましたが子供たちのところへ行きました。子供たちを抱きかかえた瞬間、隣の部屋から大きな物音と怒鳴り声が聞こえました。
様子を見にいくと、父が「覚悟しておけよ」と言って出て行きました。
元旦那が胸元を切られていて、避けた拍子に後頭部をテレビ台にぶつけて後頭部にも傷がありました。幸い傷は小さく、出血もさほどありませんでしたが、すぐに病院に行くように言いました。警察沙汰にするのも面倒なので(その時は本気でそう思いました)子供が包丁でいたずらしそうになって、慌てて取り上げようとした怪我という、お粗末な理由を考えて病院に行ってもらいました。

その後、私たち夫婦の間でもいろいろなことがあり元旦那が、全く笑わなくなり、一言も話しをしなくなりました。
子供たちへの影響も考え、何よりも元旦那を父から守らなければならないと思い、とりあえず実家に戻るように勧めました。父には出張と説明をしました。

元旦那は、子供のことも全く可愛いと思えない、稼いだお金を家族のために使うのが納得できないと言っていました。全く笑わないのも、話さないのも「軽鬱」だと言っていました。
私は父のしたことに罪悪感を持っていたので、元旦那を責める気にもなれず、父のことも原因だろうなと思っていました。
前向きな別居とは言いながら、私は離婚した方がいいかなと考えていました。
身軽にしてあげよう、私が2人の子供を育てていこうと考えていました。

そして11月のある日。
出張ではなく、実家に帰っている事が父にバレてしまいました。
怒った父は包丁を手に、私の所にやって来ました。父は私の顔を平手打ちして、包丁を向けたのです。まさか、実の娘に?
父を止めようと追いかけて来た5番目の母に子供たちを連れて避難するように頼みました。

父は私の胸ぐらを掴み、包丁を向けて「てめえ、死にやがれ」と言い放ちました。
恐怖と怒りで胸が苦しくなりました。その時、私の口から出た言葉は「私は死なないよ。子供たちを育てていきたいから、死なない」でした。

「助けて」とか「殺さないで」とか「やめて」という言葉を使わなかった事に、今、これを書きながら改めて驚きました。

父は「だったらガキ殺して死ね」と言いました。
その瞬間、私の中でブチッとキレたんです。まさにキレたという表現がぴったりです。「冗談じゃない!」と怒りに震える声で答えました。
父の手が緩んだ瞬間、私は父から距離を取りました。
包丁が飛んできて、その後、ダイニングの椅子が飛んできました。
父はそのまま戻って行きました。

それからの日々は、いつ殺されるのかと怯える毎日。それでも子供達の前では、思いっきり元気で明るいおかーちゃんで居続けました。
私は、元旦那に部屋を探して欲しいと頼んで、内緒で引っ越しの準備をしました。もし父に見つかってしまったら、荷物も全て放り出されて、私たちも追い出されてしまうだろう。なんとか住む場所を探し、子供たちのものを守ろうと考え、見つからないように、押し入れの中に少しずつ段ボールを隠しました。ダンボールの前には、収納ボックスを置いて見つからないようにしていました。

そんなことをしているうち、父がまた怒鳴り込んできました。
「もう出ていってくれ」と。
私は内心「ラッキー」と思い、丁寧に低姿勢で父に頭を下げました。
「わかりました。出て行きます。部屋が見つかるまでいさせて下さい」と。
これで、堂々と引っ越しの準備ができます。私ってしたたかだわ〜

1996年12月の終わりに引っ越しをしました。
上の子は6歳、幼稚園年長さん。空雅は1歳11ヶ月。
別居中の元旦那には「重荷になるものは全部手放していいよ。私が2人を育てるから、あなたは自分の稼いだお金を自由に使えばいい」と言って離婚する事にしました。だから養育費ももらってなかったんです。
引っ越し当日、引っ越し会社の名前が入っていないトラックで来てもらい、引っ越し先を伝えないまま家を出ました。包丁を持ってこられたら怖いので。
その日は、上の子は幼稚園のスキー教室に行っていたので、荷物だけ運んでとりあえずは実母の所に泊まらせてもらいました。

新しい部屋で母子三人で暮らし始めた日、「我が家は明るい母子家庭、イエ〜」と、ハイタッチをして笑い合い、2人の子供を前に私は約束をしました。
「財産は残してあげられないかも知れないけれど、生きていくために必要な事は教えていくから。ちゃんとご飯を食べて暮らせるようにするからね。」と。
私は、それをずっと守ろうとしていたのかも知れません。
不思議だったのは、空雅が引っ越し当日から新しい部屋になっても「ジージは?」とか「おうちに帰る」と一度も言わなかったのです。それは、本当に不思議でした。
私は「人生七転八起 我が家は明るい母子家庭 美由起組」組長を襲名しました。
その時、私の体重は40kgを切っていました。

嫌悪や憎しみは、恐怖より早く消えます。恐怖は長く残ります。
私の父に対する感情が、どのように変化して今はどうなっているのか?
それはまた、機会があったら・・・・・
長い長い、私の生い立ちを読んでくださりありがとうございました。

次回はまたとこちょ。にバトンを渡します。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?