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教えて下さい83:私はいつも私?私はいつも違う私?(v5_もぐらさんの悩み)

9月22日。金曜日。オフィスで久しぶりにもぐらさんに出会う。「ごぶさたです。コロナで死んでいたのですよね。お疲れ様です。免疫ゲットで良かったということで。ところで例のスアちゃんの送別会の件ですが、場所は決めましたか?人数が今、6,7人で」。あれれ、覚えていない。全く忘れていた、というか、その件ってボク絡んでいた、というか、話を今聞いても思い出せない。「え、いつだっけ。」「あぁーーー、でた。必殺忘れたふりですかぁ? ボクさん、ミラクルスーパー忘れん坊ですものね。いついかなる時も失念大魔王! このレッテル、いいですよね。忘れるのが許されるからぁ。場所探すって言ってましたよー」「そんな、いじめないでよん。。。本当に覚えていない、というか、イヤ、それ絶対にボク絡んでないよ。というか、いつ?」

「忘れっぽい」とよく言われるし、自分でもそう思う。というのも、記憶に頼らないことにしているから。なので、メモすることに非常に気をつけるが、粗々にしかメモしない、から、いずれにせよ忘れる。で、仮に忘れても1から考えれば良いと思っている。このこと自体が意味不明と思われるし、かなり非効率だし、取り返し付かないこともあるだろう、けど、思考の勉強にはなるし、そこまで重要なことはちゃんとメモするから忘れない。そして、その過去と今考えた結論は、自分は同じ思考をするから、同じ結論になる、と思っている。思い込んでいると言う方が正しいか。。。

さて、これは正しいのだろうか。自分は「同じ」性格・思考パターン・癖・好き嫌いだから、同じ意思決定をして、同じ行動をするのだろうか。そもそも過去の判断・言動を忘れているから検証はできないが、実は「同じ」と思っているのは自分だけか? 一方で、でも、人から批評されるボクの性格・行動パターンはいつも同じだ。だから同じ行動をしているのでは、と思える。が、しかし、総じてこんなひととの評価と、日々の1つ1つの意思決定・行動が同じ傾向とは限らないはずだ。意図的に変わる時も、無意識に変わってしまう時も、ある。

今日の悩み: ”私はいつも同じ?嘘、偽り、飾り無くありのままで同じ、なのか、無意識に自分は気づかないで違う自分に変化している。色んな私がいる。そう捉えて注意すべき。なのか。”

案1:
程度問題。思考、行動には当然、一定の幅が当然ある。バスケが好きでも病気の時はバスケはしたくない。失敗ばかり続くと嫌いにもなる。当たり前だ。ただ、そんな程度の違いだ。嘘、芝居、誇張、忖度などなど、人間社会では求められる。しかし、流されることなく、素直で飾り無く、偽りない、こんな「らしい」自分であることを維持するには、勇気と信念と自信が必要だ。こんな力強い心があるならば、いつも私は同じでいられる。強い精神で私は私でいられる。結果、周囲からも、自分からも、自分らしい思考・行動の傾向が強くなり、セルフブランドが立つ。自分らしい私ができあがる。こんな流されない私を目指そう。

あるいは

案2:
ジキルとハイドに、24人のビリー・ミリガン。小説でなくても現実にもころころ変わる自分を感じることはある。疲れた自分とぐっすり睡眠した朝の自分。病気の自分と元気な自分。好きなひとと一緒の自分と嫌な上司と一緒の自分。失敗した時と成功した時。ノーベル経済学賞を受賞しているダニエル・カーネマンの「ノイズ」(早川書房、村井 章子訳)という本にはショッキングな事例がたくさん。判事やらドクターやら役所の職員やら専門家と呼ばれる人々が同様な対象(同じ事件、同じ病状、同じ条件の移民などなど)に違い過ぎる”専門的”?評価を下す。平気で。そして無意識で。不公平・不平等の極みだ。。。罰金だけで済むのか禁固3年なのか、風邪ですね、なのかガンを見つけてくれるのか。

つまり、自分は自分じゃない。昨日の右判断は今日の左判断。でも、気づけない。こんな危険性が自分にも常にある。そう思い客観視しながら思考・行動すべき。権力持った自分は暴君になるかも。何らかの被害にあったら執拗な復讐に執念燃やすかも。集団心理に惑わされて人を傷つけるかも。。。自分は変わりえる。気をつけよう。

ま、案1でも案2でも、どっちでも良いかな。ひとそれぞれ。第3の選択肢もありえる。人生に「正しい答え」無し。

大切なのは:
1.
どっちか悩む/どっちもあり/変化する、そんな自分を知ること
2.そして、自分と違う他人がいても、差別せず受け入れること
3.そして、大切な家族/恋人/仲間が悩み、辛く感じるその時に、案1、2のどっちがより心を落ち着かせ、安心させられる温かい言葉になるかを考えてプレゼントすること

そんな風に思ったりします。

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