十九歳病

 その女は眠剤が描く幻覚のように胡乱げだった。──ふた月前の私なら、そう表現したかもしれない。晩秋の夜だというのに薄着で、変なキャラクターのトートバッグを手に下げている。私を見るなりにっかり笑って大袈裟に手を振る。街灯の下に立った時、その姿が昔より随分重たげに見えたのは気のせいだろうか。

「誕生日おめでとう。そら、飲むぞ」

 女、千蛾はふざけて私より先に私の部屋へ駆け込もうとした。横顔が陶器みたいに白かった。部屋の灯りをつけてもそれは変わらなかった。

「なんでツイッターやめたんですか」

 二年ぶりに会って第一に聞きたかったことを質問したのに、あっさり無視された。強制的に乾杯させて、彼女はまるで先週にでも会った友人のような軽快さで楽しげに喉を鳴らす。初めて飲んだ缶チューハイは全然アルコールの味がしなくて、ちょっと癖のあるジュースみたいだった。

「そう、誕生日だからね、プレゼント持ってきたのよ」

 ワインレッドのジャケットをまさぐりながら彼女はうきうきとして、やがて絶望する。

「やべ落とした! せっかく取り寄せたのに! かっちょいい薔薇のピンバッジ!」

 頭を抱える彼女にはむしろ、すぐ物を失くす癖は変わってないんだな、と安心させられた。ここで本当に薔薇のピンバッジを受け取っていたら私はどんなに心細くなっただろう。千蛾はそれほど見違えていた。こんなに地味な、おばさんくさい、背景に溶け込んでしまいそうな女がかつて自分の憧れた存在だとは、どうしても信じられなかったのだ。

 千蛾とは、彼女の昔のハンドルネームだ。私たちは創作界隈にいた。アイコンはまだ四角でいいねがファボだった頃から、二年前まで千蛾のアカウントはあった。当時気に入っていた私の創作キャラはイツキという名前の中性的な男子で、千蛾のキャラクターとBLではないけど共依存みたいな関係を結んでいた。
 二歳年上の千蛾が書く小説は、当時の私に強い創作意欲を与えてきた。耽美なグロと、お洒落で厭世的なエロがかっこよかった。その時千蛾はバッチバチのピアスに青のメッシュ、刺繍の入ったブラウス姿で、金の細い眼鏡をかけていた。

「なんでツイッターやめたんですか」私はもう一度聞いた。今度はノータイムで千蛾が「やめると決めていたからさ」と言った。

「二十歳になったらやめるって決めてたんだ」

 千蛾の目線がそばの水槽へ流れるように移る。中では一匹のベタが静止していた。元々は『ツミ』と『バツ』の二匹がいたけど、少し前に『ツミ』が死んで一匹だけになってしまったのだ。

「二十歳になって、どう、実感は?」

「……特別な感じはないですよ。そりゃ十六とか十七の時は大人になるのがすげえ嫌でしたけど、もう今は、なるようにしかならんって思いです」

 缶チューハイを飲み干した。酔っ払っている感覚はない。天気のせいか部屋が湿り気を帯び始めている。

「最近、趣味が変わってきたような気がして。今まで聞いてた曲とか好きだった漫画に、見放された気持ちになるんです。創作も、なんかこれじゃない感が出てきてやりづらいんです。フォロワーもいなくなってくし」

 千蛾は黙って私の話を聞いていた。
 それまで心の中で何度も起こってきた革命が、思春期の荒波が過ぎ去った今、変化の兆しにすらだるいと思うようになった。高校生活という青春の掃き溜めから脱出したばかりの時は、この世界を許してやってもいいかなと考えていた。私にしか知ることが出来ないであろう秘密の夜をあべこべに思い描いていた。でも、レズビアンの真似事をしたり、薬をたくさん飲んだぐらいじゃ、ひと夏の過ちをつくることすら叶わなかった。

「……千蛾さんのアイコン、何でしたっけ」

「確かウスバカゲロウじゃなかったか。蛾なのにカゲロウなところが、謎めいていてエモいと思ったんだ」

 秘密の世界へ浸る準備は周到に行われた。私は小学生時代までギャーギャー言って嫌っていた昆虫の生態を調べて、さして興味ない花言葉を覚え、柘榴の実をエロいと言ってみたりした。試験管みたいな瓶に枯れた草花を詰めて飾ったりもしたし、SMとか緊縛された女の写真を芸術的だと思って積極的にいいねした。中学時代の自分の青さを痛いと言いながら愛していた。痛がりつつも認めれば現在の自分を正当化できると思っていたからだ。

「千蛾さんの小説は唯一無二でしたよ。あんな話が書ける人、ネットのどこを探したって見つからない」

「うん、私もそう思うよ」

「なのに、急にやめるだなんて」

 千蛾の目は薄く濁って暗かった。昔のような鋭い光を失くした代わりに、瞳の色に奥行きが生まれていた。哀しくなった私は彼女と目を合わせないよう、少し俯く。

「私もツイッター、やめよっかな」

「なんでだよ、君は続けろよ」

「二十歳になったし。フォロワーいないし。イツキも、もう……」

 視界に千蛾の華奢な手が滑り込んで、私はいつの間にか彼女に頬を優しく支えられていた。

「『忘れたのかよ、イツキ。お前、俺の代わりに花屋やるって言ってくれただろ?』」

「ぷっ」

 やめてくださいよ、と彼女を押しやる。恥ずかしくて滑稽で泣きそうになる。
 けれど千蛾は彼女のオリキャラみたいな慈悲深い目つきをして、なおも私の汗ばんだ頬に触れ続けた。

 私たちは唇を重ねていた。千蛾の吐息は変わらず女のものだった。けれど、彼女はどこかで何かを知ってしまったのだ、私が知りたくても知れない何かを──何度目かの口づけでそう気づいた。女、だと思うと首筋がぞわぞわして、本能的に相手を突き飛ばしそうになる。乾いた心は乾かない。私を潤すのは、女ではない。

 床に寝かせられながらいつ彼女の愛撫を止めようか迷っていると、千蛾は急に自分の白んだ顔をぺたぺたと触り始めた。

「私、変わった?」

「……変わりましたね。なんか、輝きがなくなった」

 彼女は心から可笑しそうに笑う。

「そっか。輝きかあ」

 その手が振り上げられた瞬間、私は訳も分からず右側を向いていた。ぶれる視界に『バツ』が映っていた。同時に、平手打ちと呼ぶには重すぎる打撃音が頭で鳴り響く。
 千蛾は馬乗りになり、言葉を失う私をしばらく黙って見下ろした。その顔が、まるで別人のように醜かったのをよく憶えている。かつて憧れていた美しき千蛾は、消えた。私は今、しわくちゃの化け物に組み敷かれているのだ。

「私がお前らの前から消えた理由を教えてやろうか」

 化け物は耳元で囁いた。

「このまんまじゃ馬鹿になると思ったんだ。大人になっても私はこいつらと性的弱者同士で傷を舐め合って、パペット人形で薄っぺらいBLごっこしながら性欲満たして、モテないから逆に達観した気になって、半端にジェンダー問題へ首突っ込んだりして一生物事の本質に触れようとしないで生きていくのかって。そんな馬鹿な大人にはなりたくねえなって思ってさ」

 私の顔は濡れていた。けれどそれが私の汗なのか、千蛾の汗なのか、またはどちらかの涙なのかも分からなかった。

「じゃあ……なんで今日、私と会ってくれたんですか」

「君がどんな人間になってるか知りたくて」千蛾の顔は既に化け物から、どこにでもいるおばさんくさい女のものに戻っている。

「まだ文学に興味はあるか? 虫や花は? まさかあんなに毛嫌いしていた乙女向けコンテンツに手を出したりしてないよな?」

「小説は読んでます。虫とか花は……前みたいに飾ったりはしてません。乙女向けかは分からないけど、男ばっかり出てくるアニメは見てます。駄目ですか」

「だめだね。君も変わってしまった」

 千蛾は私に跨りながら、最初に会った時のようににっかり笑った。体勢を変えた彼女のジャケットから、小さくて硬いものが落ちる。

「……あれ、あったんだ」

 私にプレゼントするはずだった薔薇のピンバッジをつまみ上げると、千蛾は私の胸の前にそれを翳し、何とも言えない微妙な顔をする。

「あんまり似合わないな」

「そうだろうなって、見る前から思ってました」

 私たちはため息にも似た笑い方をして、千蛾は私から降り、私は髪を手ぐしでとかした。その後も変な間がずっと続いていた。やがて彼女は「ごめん」とだけ言って、こちらに表情を見せず私の部屋を出て行った。

 アカウントを削除する少し前、千蛾がフォロワー限定で公開していた短編小説の一部を思い出す。

『耽美主義で、暴力的なのに気取った言葉を使う十九歳の彼女は、やがて文学よりソシャゲ、哲学者より配信者、死より缶チューハイに魅力を感じるようになり、かつて大切に切り取った複雑で美しい表現の数々は、彼女が推しへ送ったスパチャの文章に何一つ表れることはありませんでした。』

 部屋にゴミが増えた。アングラ大辞典、犯罪者の手記、悪趣味なネイルチップに東欧雑貨屋のネックレス。それらは少し前まで私の宝物だった。他人と同じであることも、違うことも許せない季節は終わった。ベタの水槽には何も写っていない。昔の私ならここにいくつもの詩を浮かべたはずなのに。

『バツ』のワインレッドのひれは、千蛾の寂しいジャケット姿によく似ている。

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