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自分の家族だけで良いのか?

何よりも、世界中のどこであれ、誰であれ、被っている不正に対し深く心に受け止めなさい。これは革命家におけるもっとも素晴らしい資質である。- 1965年にチェ・ゲバラが彼の子供達に宛てた手紙「パパからの最後の手紙」より

僕には4人の子どもがいます。毎日のように全国を周り家に帰る日はほとんどない。

「家族は大丈夫ですか?」

この言葉を良く投げかけられる。

僕の子どもには家がある、食事や衣類に困ることはなく、理不尽な暴力を振るわれたり愛情に飢えていることもない。塾に通いたいといえば通えるし、家にはゲーム機もある。周囲の家庭と少し違うことと言えば父親が家にいないだけだろう。

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この子はブベル君(4歳)栄養失調で足が動かなかった。今年の二月にバングラの学校へ父親が12時間かけてやって来て「助けてほしい」と懇願された。

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隣町から食器の代わりに鍋の蓋を持ち、僅かな炊き出しをあてにして数キロ歩いて来た幼い兄弟。食事を渡そうとすると「まだ食べていない子どもたちがいるから特別扱いをしてはいけない」と現地のパートナーに止められた

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この子はミームちゃん。幼少期の栄養失調が原因で脳に重度の障がいを負ったと言う。食事の提供をしていると「そんな事をしたら働かなくなるぞ」と言って止めてくる輩がいるが、この子の両親は死に物狂いで働いていた。我々の服を作ってくれている縫製工場でだ。

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ギニアで物乞いをしていた兄弟

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ネパールの路上で眠るストリートチルドレン

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わずかなお金が払えずに病院へ行けない少女。

日本社会にも虐待やネグレクト(育児放棄)で苦しい思いをしている子どもたちは沢山いる

もう一度問いたい

「自分の家族だけで良いのか?」

親である以前に僕は1人の人間であり40歳の大人だ。その大人の役割は何か?衣食住の満ち足りた子どもと一緒に過ごす時間を優先するのか?理不尽を被っている子どもたちの為に動くのか?

理不尽はどの世界にもある。それに対して「仕方ない」と口にして良いのは、向き合って行動した人間だけで、向き合いもせず、行動もせず、「仕方ない」なんて言葉は恥ずかしくて口にできない

「寂しがらないのですか?」と問われることもある。寂しい思いをする事も当然あるだろう、それは父親とか家族だけの話ではなく、人間には常に出会いと別れがつきまとう。僕がいつかこの世からいなくなった時に「あの人は何を必死になって守ろうとしていたのか?」それがきっとわかる日がくる。

何よりも飢えて苦しむ人の存在を知りながら、何事も無いかのように生きていく方が、人として寂しい生き方と僕は思う。

聖人君子になる気など毛頭ない。偽善者ぶる気もない。素晴らしいと褒めて欲しいわけでもない。人格者になろうとも思わない。

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僕のやってることは"腹を空かせている子どもに食事を届けている"ただそれだけだ。良いとか悪いとかそんな次元の話ではない。子どもが食べる権利を守る、それは当たり前の話。

もう一度問う

「自分の家族だけで良いのか?」

ひろのぶ

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