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「怖くて言い出せない…」

先日の話題から…

 先日、(中高一貫の)学校の先生からお話をお聴きしました…
「同じ学校でも、学年によって、雰囲気が全く違います。今年、もっている学年は、大人しくて先生の言うことを素直にハイハイと聞く学年。下の学年は、自分たちでどんどん提案する学年。言いたいことははっきり言う。私たちはそれができない。それではいけないと自分たちでわかっている。自分の意見がないわけではないけれど、言いたくても怖くて言い出せない。」

生徒たちは理解している

 生徒たちは分かっているのだ。わかっているだけに、表現できないって辛いことだろう。そう強く感じる。一人二人がそう感じていて、少数がそのような状況になっているというのであれば、個性の問題、家庭教育の問題ということもできるのかもしれない。しかし、それが学年全体ということになれば、そういうふうに逃げるわけにもいくまい。いままで数年間預かってきて学年全体がそのようになっている。もし、もともとそのような感じがあるのであれば、それを脱却できるように指導をすることができなかったのか、考える必要があったはず。もし、特にもともとそのようなことがなかったとすれば、そのように育ててしまったということになり、その責任はたいへんに大きい。

学校の、教員の影響力の大きさ

 学校の全ての指導において……それは、教科指導の中においても、特別活動やその他の行事においても……学校側(教員など)から、(教育)指導という名のもとに、与えるだけ与えてきてしまった結果であるということも一つの原因として考えられよう。
 学習(勉強)と言えば、試験で追い込んで「させるもの」という考えがあるゆえに「外圧(外発的動機付け)」を与えて強制的に行ってきている学校(教員)がまだまだ多いようだ。これでは、ほとんどの生徒が学習(勉強)嫌いになってしまう。それは当たり前のことではないか。このように考えると、学校は、当に、学びを「嫌いなもの」に変える「ブラックボックス」になっているということになる。

学びは「たのしいもの」

 本来、「学びはたのしいもの」であると思う。いや、愉しいものでなければならないはずだ。そうでないと、学びが続かない。この動きの激しい時代に「学び続ける」ことができないということは生きていくことが非常に難しくなることが予測できる。それにもかかわらず、「学びのたのしさ」を壊しているのは誰なのか。それを考えると、とてもつらい。
 大学合格(実績)なんかよりも、もっと大切なもの、当たり前のようでそれがあまり重視されていないこと、それこそが、「学びのたのしさを感じ続けること」のではないだろうか。そして、それを感じられるような「場つくり」こそが私たち教員、私たちがはたらいている学校というところなのではないだろうか。生徒は部活でやりたいことやっているから学習(勉強)では苦しんでいい…なんて言うことで良いことではないはずだ。学校の中心的役割は授業における学習(勉強)であって、そのために学校における時間の多くが「授業」に割り当てられている。新学習指導要領の理念に立ち返って、もう一度考え直しておく必要があろう。
 そして、私たち教員には、常に、愉しく学ぶ(学べる)方法を「学び続ける」ことが求められていることになる…

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