今日は筆がのっているので

 情の内です。今日は筆がのっているので、毎度書いているどうでもいい話を書こうと思います。毎回毎回駄文を吐き出しているわけですが、好きしてくれる人がいる。世の中捨てたもんじゃないよねー。

 何も考えずにノートを書き始めるのってわりと初めてですが、昔は書くことが一つの娯楽でした。小説とか、読書感想文とかよく書きましたよねー。どれもこれも完結しないんだけど、だらだら書いているうちに、止まらなくなってくる。書くという行為にはデトックス作用があるんだろうなと思います。なんかジャンクフード食べた後の青汁に近いよね。ああ俺は今日こんなに体に悪そうなもんを食べた(体に悪いもの=おいしいという方程式は中学校の頃に解いていました)にも関わらず青汁を飲んでいる。俺の腸内フローラはこうして正常に保たれる。いいことしたなー。そんな感じ。書くという行為は、一日の中の自分の反省とか、まあうまくいかんし、うまく行っても調子にのっている俺だけど、ちょっと出して落ち着くかな。みたいな感じ。よくわからない。けれど気持ちいい。

 万年筆が好きになってよかったなと思うのがそれだ。パソコンで文字を打つのは肩が痛くなるのだ。漢字がかけなくなってきたからついついパソコンに頼るんだけど、万年筆は実にヌルヌルとストレスなくインクと字を吐き出してくれる。特に最近、セーラー万年筆のプロフィット21と思われる透明軸の限定万年筆を手に入れ、それをアイドロッパー化したので、うまうまなのである。インクが切れず字がもりもりと生み出されていく。表現は悪いが自慰行為にも近い。そういうインクダラダラ筆記が、自分の頭の中をスッキリ整理してくれる。最近読書感想文ノートを2つ出したが、養老先生が言う体が個性というのは実に見事な言葉だと思う。ペンを握る手がするする動くだけであんだけ気持ちいいんだから、ヨガとかやったら最高だろう。いずれやりたいなーヨガ。若い姉ちゃんたちに混じって、やってみたい。こういうことを書くと嫁に怒られるから、まあもうこれ以上はかかないけれど。

 テーマなく書き出すと日記になってしまうわけだが、やはり思考には方向性があって、ここまで書くと今日の方向性は快楽の在り処、なのかなと思う。ここからは少し真面目に、快楽についての考えをまとめていこうと思う。

 まず思いつくのはセックスだ。この快楽は少し別種な気がする。当たり外れは日によるが、気持ちいいとかそういうんじゃなくて、もう生まれ変わった気がする。そんな感じなのだ。嫁さんとの相性がことさらいいわけではないし、セックスレスっぽくなる日もあるが、それでもやめようとかもうしないとかは思わない。嫁には悪いが多分俺は死ぬまでセックスをするだろうと思う。血の脈動や、頭の中に血液が送り込まれ、汗が吹き出す感覚がはっきり生きていると実感させる。あれはすごいものだ。オスメスを作った神様は偉大だと思う。

 次の快楽は、モノを減らしたり、得たりすることだ。マキシマリスト、ミニマリスト。この2者は対局のようでいて、実は同じカテゴリーなんじゃないかと思った。やっていることは、自分の周りにある環境の支配ナノではないか。要は、自分がいるコミュニティーの中で、自分がなんとかできる場所をいじっているのが楽しいのだと思う。究極的にはオタクとかゲーマーとか、アスリートとかクライマーとか、いわゆる夢中になってハイになっている人たちはみんな仲間なのではないかと思う。全員が自分の支配域をいじって、そこにだけ目が向く瞬間を味わっているのだから。物欲とか支配欲とか、言葉にすればかんたんかもしれないけど、捨てたり手放したりするのも、実は支配をコントロールしてるんだよなと思う。だから昨日までマキシマリストの人がミニマリストになってもいいし、その逆だって全然ありだし、両者は共存できるのではないかと思う。そんなこと言ったら、やれお前はにわか〜リストだとか、炎上とかしそうだが、俺の考えはインフルエンサーではないので、多分なんにもならない。まあ、なっても言うことは一つで、俺は一元論者にはならないってだけなんだろうけれど。

 さて、すこし話題を変えて最近同僚の言葉が妙に刺さっている。特に好きな言葉は、『自分中毒』だ。

 自分の考えをどうしてわかってくれないのって詰め寄っていく人がいる。いや、他人事ではない。たまに俺もそうなる。けれど、そういう考え方って、自分のことに中毒になっているんだなと思う。ちょうど学校でテストの採点があって、生徒に返した。そうすると、回答のあり方に猛反発する子がいて、自分の正当性を主張し始める。正しいことをいってるふうに聞こえるのがまた困るのだが、自分中毒だなと思った。

 学校の回答は正解があるぶんまだいい。『これじゃなきゃだめ』と言える。でも世の中の問題の多くには正解はない。正解かもしれないことはたくさんあるが、だれも科学的に評価したわけじゃないことがたくさんある。そういうとき、自分中毒になっている先生とか、親はたくさんいる。

 どうして生徒が言う事聞いてくれないんだとか、どうしてうちの子のことをちゃんと見てくれないんだという。一見すると正しいことを言っている気がするが、こういう人たちは自分が正しいという視点でしか話をしない。それを受け止める人が一番大変なんだっていうのを、全然考えない。他人のことなんて正直どうでもいいのだ。本人だってそう思っているのに、自分のことになると、みんなだいたいそう思ってるじゃん、がなくなってしまうのだ。厄介なのは、だいたいこういう話をするとわかるわかると納得する人に限って、自分中毒になったら別人のように攻撃的になったりする。俺も人のこと言えない。

 EQについて学ぶ研修があって、結構勉強になったが、意外と共感するという能力が高かったから、日本人の自分中毒者が増えたのではないかと思う。自分の死体は見えないが、自分の姿だってよく考えると鏡があってもよく見えない。光学異性体というか、左右バラバラなわけだ。そういうあやふやな自分の考えというのを反映するのが他者ではないだろうか。他者の瞳に映る自己を見つめるというか、相手の反応を見ながら、ともすれば自分ばっかり見ている。相手に話すんじゃなくて自分の独白になっちゃってる。もともと空気を読む能力が高い日本人は、みんな共感する力がある気がする。共感しすぎちゃって、自分中毒の人が育ちやすいんじゃないかと思う。みんななあなあでめんどくさいから聞いてやるかとなる。自分の考えばかり言う人ができる。相関はあるだろうか。

 さて論点がずれたと思います。この自分中毒者が生まれる土壌があるかいなかみたいな数値やデータを示せない思いつきは、あまり意味がないでしょう。だからまあそういう人もいるし自分だってたまにそうなってる、でいいんだと思うんですが、響きがいいじゃないですか。自分というのはどんなどラックよりたちが悪い快楽剤なのかもしれません。自分の思いをぶつけるって最高に気持ちいいからねえ。

 で話を戻すと面倒なのは自分中毒の生徒の親はだいたい自分中毒なんだということです。そこも相関はあるのか。よくわからん。俺は今日もうんうんと話を聞いているわけです。こういう中毒の人の一番の対処法は落ち着くまで聞いてやることだからね。

 ノートを書いているとだんだん愚痴になるいがする。まあいいか。今日の話はまとまらないけれど、日記だと思って諦めよう。

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