子どもが生まれて死ぬことを考えるようになった。

 どうも情の内です。タイトルひどいですが悲観的な内容ではありません。養老先生の『死の壁』の感想文でもあります。自分でメメント・モリしてみた話だと思っていただければいいかなと思います。

 養老先生の死の壁は、バカの壁の続編として世に出された作品です。独白をまとめたと言うんだから、すごいなーと思います。頭の中で何考えているんですかね。私の独り言なんてだいたい仕事の愚痴や嫁の愚痴ですよね。ひどいもんです。

 今日は死について考えたことをまとめようと思って、筆をとったのですが、ちょうどコロナが流行っていたりして、死んだらやだなと思っています。でも、人の致死率は100%なんですよね。養老先生の本にそう書いてあって、ああそうか人は死ぬんだもんなと、変な納得をしました。考えてみれば小学生の頃には死を考えていた記憶があります。自分がいなくなるとはどういうものだろうか。そういうのはどう表現したらいいのか。わからない。怖いな。家族に死んでほしくないな。そんなことを思っていたように記憶しています。でも、漠然とですが昨年息子が生まれて、嬉しかったのですが同時に『あ、俺死ぬんだな』と思ったのです。

 不思議なものです。生命の誕生というある種死とは真逆の状況にあったのに、自分の中に生まれてきた感覚は明確な死の認識でした。自分はこの子より先に死ぬんだよな。そういう思いが一気に湧いてきて、特になんの感慨もなく、ああ、そうか死ぬのか。と思ったのでした。感慨がなかったのでそのあとしばらく気にしていなかったのですが、道路で死体を見た感じに近いでしょうか。じわじわと違和感が襲ってきて、死ってなんだ、使徒はどういう状態だ。自分が死んだらどうなるんだ。みたいなことをもんもんと考え始めました。それこそ小学校のときの私が何も考えずただただ死を恐れていたときのように。そんなことを思い始めた年に死の壁に出会うのですから人生は面白いなと思います。いや、当然私の頭の中では死についてバイアスがかかっているので、その単語に着目しただけなのかもしれませんが、それでも内申運命だなと思いますよね。だから、死というのを考えようと思ったわけです。恐れながらではなく、あくまで理解して、先に進むために。

 養老先生の死という概念の解釈は多岐に渡っています。あんまりにも広がったもんだから前作よりとっちらかった話になっている気がします。だからこれがまとめだというのはありません。ただ、心の中に残り考えるヒントになったものや概念を抽出することはできます。これを一つ一つ説明するのは意味がないと思うので、書き出してみて自分の考えをまとめようと思います。

 人の細胞は毎日入れ替わり、一年もすれば全く別物に置き換わっている。だから毎日死んで別人になっているようなものだ。死は共同体からの仲間はずれでとくに日本では古くからこの感覚が残っている。死ぬと与えられる戒名は、今までのグループから外れた証。グループから外れるのは根源的に怖い。俺の死体『一人称の死体』を見ることはできない。だから、死というのは自分では絶対にわからない。無意識の世界の話だ。そういうものとしか言いようがない。死は絶対のものだ。これ以上なく、例外なくゆるがない。だから死を考えることは意味がある。

 さて、実際死を考えることには意味がありました。人生の多くのものは究極的には死の道中における些末なことだと思えたからです。また、自分という人間が変わっていけるのだとはっきり確信しています。自我同一性に縛られていたように思うのです。私は私だゆえに変われない。そんなことはないんだと。死という変化というか無意識に向かって今いる意識の世界も間違いなく変わっているんだと、そう認識してから、心の中にゆるがないものというのがなくなった気がするのです。それは芯がなくなったのではなく、『柳のようになった』とでもいえばしっくりくるかもしれません。

 例えば私はミニマリストです。そういう生き方を持っています。しかし、これが変わってもいいと確信しています。昨日の私と今日の私、言ってることが一貫しなければ人から叩かれると思いますがそれもよい。だって昨日の私はもうどこにもいないんですから。細胞が入れ替わって、新しい私になっちゃった。脳の構造上、昨日の自分と今日の自分が別人だと認識してたら生活できないから『私』と思っているだけで、毎日死んで生まれ変わっている。そう思うと、いつだって以下用にも変化できるじゃないかと、気づいたのです。ミニマムというあり方を宗教のように崇めなくていいし、別にや~めたとやったっていい。要は変わっていけるのだと、そんな気づきを死の中から拾ってきた気がします。

 かつての私はマキシマリストでした。また、友達のいない男で、友人なんてできないなと思ってました。人生で一番うまいつけ麺屋は決まっていました。車は手放せないと思っていました。でも、どのこだわりも今はありません。ああ変化なのだ。死んだのだと思ったのです。

 死を思うというのは、実は生きやすさにつながるんじゃないかと思います。コロナが流行ったり、アメリカと中国が睨み合ったりして、なんだか疲れます。ビクビクします。でも、心の有り様は変わっていける。こういうもんだみたいな決めつけとか、一元論的に『これが正しい』なんて『やらなくていい』そう思ったら、昨日より優しくなったし、心のコントロールが取れるようになった気さえするのです。ちょうど学校でEQについて学ぶ研修会があって、EQって重要なんだなーと思ったりし始めたときに、こういう考えを持てたのは、いい学びだったなと思います。

 明日には変えたっていいんだ、と思っていると、途端に人生の道が開けて、こう歩こうかな、いやこうやってみようかななんて、生きる意味や意志を考えることにもつながる。ああ、空が青いし飯がうまいなーと思う。死について考え続けようと思いました。そんな話です。まとまらないんですが、皆さんも死について考えて見てはどうでしょう。

 最後に、養老先生の言葉を引用して、「死にたい人々へ」メッセージを贈りたく思います。自分のクラスにもいるんですよ。だから、今の自分がおもっていることを書いておいたほうがいいなーと思ったのです。

 死は絶対だ。必ずくる。だから焦って死ななくていいと思うのです。

 いい言葉だなと思います。人生焦りは禁物です。これをクラスの子が読むかはわかりませんが、焦らず誰もがたどり着く場所に自由にあるいたらいいよと思うのです。

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