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親の死に目と義務感

おはようございます、北海道1年目でも、
まだ雪で気分が上がる谷村かいごです。

今回は、
親や家族の死に目について

多くの人は親の死に目に
立ち合いたいと考えてます

それは、そうしたいから
そう思う人と、

「そうしないといけない」
という義務感から思う人

いてると思います。

親の死に目に会えないことは
よくないことだ、

って誰かに言われそうとか、
昔からの慣習だとか、、

それって正しい?

という議論は、
親の死に目に会うべきか
の主旨を捉え損ねます

結局、自分自身が
「後悔するか、しないか」
が最も重要なんじゃないかなって


親の死に目に会いたいと
義務感や、そうしたいだとか

そう思ってる人が、
忙しくていけなかった

これに後悔し、
親を思い出す度

「あー、最後
 本当に悪いことした」

と後悔するのは悲しい。

親を思い出す度、
後悔がセットになるのは避けたい

だから、どうしたらいいのか
というと、後悔しないようにする、

が重要で、自分が最善を尽くせたか
という自問に明るくYESと言えるようにする

この最善を尽くせたか
という点がポイントなんですが、

見取りの中、いつ息を引き取るか
というのは予測不可です。

時に見取り状態に入って
半年の期間が経過する場合や

見取り状態となる前に
ころっと逝ってしまうことも。

たしかに、自分自身
1人寂しく死にたくない

と考える方も多いと思いますが
家族としての自分が死に目に会えない

なんてことは、
例えずっと近くにいても出来ないこともある

大切なのは、自分ができるだけのこと
ちゃんと出来たかどうか、なんじゃないかな

なんて、そう思います🥺

ということで、親の死に目には
立ち会えた、立ち会えなかった

ということに焦点を置かず
後悔ないよう最善を尽くす

が大事なんじゃないか、
という話でした。

まだまだ、道半ば
谷村かいごでした

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