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階段島シリーズは、怖いくらい僕の悲観主義に類似している

僕は、「いなくなれ、群青」(河野裕 作)という小説の中で初めて「悲観主義」という言葉を知った(関連記事「僕は悲観主義の僕を笑ったりしない」)。


じゃあ僕はどこまで自分だったのだろうと、考えることがある。僕が階段島シリーズの一巻目(いなくなれ、群青)を始めて読んだのは、中学三年の冬だった。あのときから、僕の視点は階段島シリーズに影響されていたんだろうか。いつのまにか、僕はどこまで僕だったんだろうって、そんな曖昧な疑問が僕の中にある。だから、備忘録的な意味で、noteに残しておこうかなと思う。

ひとつ確かなのは、初めて「いなくなれ、群青」を読んだとき、僕は主人公七草にすごく共感したんだ。七草は僕自身の基本的な考え方と馴染むような視点の持ち主で、僕が言葉にできない何かを知っていそうな気がしていた。

僕はそれまでもたくさんの本を読んでいたから、シリーズ物の一巻目を読めば、このお話が面白いか(次の巻を読む価値があるか、もちろん主観的な意味で)なんとなく分かるんだけど、この本だけは全く分からなかった。面白くなりそう、でもつまらないままで終わりそうな気もした。(あとでわかったことだけど、そもそもこのシリーズには驚くようなどんでん返しとかはなく、盛り上がりには欠けるようなストーリーがいい意味で特徴的だと思う。)
僕はそれでも、この本には何かあるような気がして二巻目を買った(おそらく高一のとき)。やはり盛り上がりには欠けていて、このシリーズを買い集めるべきかの判断がつかず、結局その本を売った。三巻目が出て、僕は新刊を買い、少し面白くなってきたかもしれないと思った。三巻目は売らないことにして、僕は四巻、五巻と新刊が出るたびに揃えた。

四巻目か、五巻目を買ったときだったか、僕は持っていなかった一巻と二巻も揃えた。だんだん話が面白くなってきたから全巻揃えたかったのもある。でも、誰にも言っていないけれどもう一つ理由があったんだ。それは、七草があまりにも僕の思考と同じだったことに、ちょっとした恐怖を覚えたからだった。僕は中三のとき七草に共感して階段島シリーズを読み始めた。そこに間違いはない。少なくともスタート地点で、僕は七草と似た思考をもっていたはず。でも七草がいなければ、僕はピストルスターなんて言葉(概念)を使うことはなかっただろう。

じゃあ、僕の思考は七草に引っぱられて、僕本来のものから外れてしまったのでは…?僕の思考はただの七草の模造品なんじゃないか…?そんな疑問が浮かぶくらい、最終巻を読んだ時点で、七草の思考はあまりにも僕の価値観や思考と一緒だった。

だから僕にはもう判断のしようがないのじゃないかと恐怖したんだ。もともと僕の中にはピストルスターに似た感情があって、たまたまそれを「ピストルスター」と呼ぶ七草に出合い、僕もそう呼ぶようになったのか。それとも、七草がそう呼ぶから、僕も信じるようになったのか。いや、でも一番可能性が高いのは、七草の考え方に合わせて、僕が僕を無意識的に修正した、というものではないのか…?

怖くて、せっかく全巻揃えたのにもう一度読む勇気がない。

どっちが始まりだ?僕はどこまで僕だった?僕は物語と僕自身の思考との境目を見つけることができずに、たまにこの本を手放して、全部忘れてしまうべきなんじゃないかとさえ思うことがある。

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今の僕の答えは、どっちもある、だ。僕は僕自身の感情や考え方があったからこそこの本に共感した。言い換えるなら、この本に出てくる七草に似た感情、判断基準、価値観を、以前から僕も持っていたと思う。一番避けたい可能性をつぶすように行動すること(これは「さよならの言い方なんて知らない」の香屋もそうだけど)、自分の思い通りに事が進むはずはないと思っていること、だから簡単に自分の幸せをあきらめること、などなど(七草の言う悲観主義的なところは基本的に共感する)。でも、本を読んだから生まれた価値観もある。僕のピストルスターは、多分そのうちの一つだ。でも、一巻目を読んだ時点では、ピストルスターの説明は少なくて、その時点ではまだ七草のピストルスターについて、理解できていなかったのではないかとも思う。二巻目だって、ちょっと話がずれているからまだわからないはずだ。

だからもし僕がピストルスターについて理解できたとすれば、それは三巻目だ。三巻目を買ったのはいつだっただろう。(発売日を調べたら2016年1月1日だった。そういえば正月休みに階段島シリーズを買った記憶があるから多分これだろう)。とするなら、僕はピストルスターについて決定的な説明を知る前に、僕にとってのピストルスター的な感情をもっていたことになる。もちろん、僕は高校入学前から階段島シリーズを読んでいたのだから、この三巻目につられて(=軌道修正されたイメージで)ピストルスターなんてものを見出した可能性は十分ある。でも、前から僕は自由な人が好きだった。だから、ここでくらい言い張っても罰は当たらないと思うのだ。

僕にとってのピストルスターは、僕だけのピストルスターだ。誰に否定されても、僕自身のピストルスターは、(七草ではなく)僕だけの価値観の中で、どこかで輝く崇高な星だ。

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そういえばこの前、階段島シリーズを読んだ大学の友達(男子)に言われたことがある。まずはこの本があまりにも僕の思考回路とそっくりで気味が悪かったと。それから、僕は七草ではなく、真辺に似ているらしい。僕は違うと思うのだけどなあ。僕はピストルスターが変わらず存在することを願っているし、悲観主義だし、正論で突っ走るというよりは理想を追うのはあきらめて現実的な方法を探している。でも、他人からそう見えるのならそれも正しいのではないかと思うから、一応ここに書いておくことにした。もし僕がもう一度階段島シリーズを読む勇気が湧いたら、この友達の意見も合わせて、読んだ感想をまたnoteに残したい。


最後に

文体とか内容に影響されてしまうから、僕は記事を書く前に似たような記事を見ないことにしている。だから階段島に言及してる人がどのくらいいるかすら知らないんだけど、でもなんだかんだ言って僕はこのシリーズが大好きだから、この本を好きな人がnoteの中にもたくさんいたら嬉しいなあと思う。

最後まで読んでくださりありがとうございます。読んでくださったあなたの夜を掬う、言葉や音楽が、この世界のどこかにありますように。明日に明るい色があることを願います。どうか、良い一日を。