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性自認の尊重をカルト的思想として扱う問題について

ここしばらく、トランスジェンダー(特にトランス女性)に対するバッシングが、再び激しくなっています。最近は特に「性自認の尊重」を求める態度を「カルト的思想」として取り上げる発信が目立つようになってきました。残念ながら、カルト問題に関心を持ち、被害対策に取り組んできた人の中にも、当事者と周囲のバッシングへ加担してしまう人たちがいます。
 
しかし、結論から言うと、性自認の尊重を求める態度を「性自認至上主義」と括って「カルト的思想である」とするのは間違っています。なぜなら、人権の尊重に関する基本的な前提と、カルト問題を扱う際の基本的な前提から外れない限り、そのように主張することはできないからです。
 
そもそも「カルト」という言葉は、もともと「熱狂的崇拝」やそれを行う小団体を意味します。狭い意味では「メンバーをコントロールして、人権侵害や社会問題を引き起こす集団」のことを意味し、単なる熱狂的集団とは区別して「破壊的カルト」と呼んでいます。現在、「カルト」という言葉が使われる際は、一般的に後者の意味で使われます。
 
この「破壊的カルト」をもう少しちゃんとした言葉で説明すると「金銭的、身体的、精神的被害をもたらす反社会的集団」です。単に、怪しく見える、おかしい集団を指すのではなく、具体的な被害をもたらす集団を指します。もう少し補った言い方をすると、「個人の人権を侵害し、公共の福祉を破壊する、社会問題を引き起こす集団」です。
 
加えて、破壊的カルトを説明する際に重要なのは「メンバーをコントロールして、被害者を加害者に変えてしまう」という構造です。これらの説明から分かるように、カルトは宗教団体の中にも、商業団体の中にも、思想政治団体の中にも、あらゆる集団の中に存在します。もちろん、社会運動をしている団体や社会福祉団体の中にも存在します。
 
では、カルトとそうでない集団を区別する基準は何か? という点が気になってくると思います。よく勘違いされますが、カルトかどうかの判断基準は「何を信じているか」や「どんな思想を持っているか」ではありません。その集団が「何を行っているか」「不適切な手段を用いるかどうか」です。
 
「メンバーが心の中で思っていること、信じていること」を問題にするのではなく「その集団が、メンバーに不適切な行動を取らせているか」を問題にします。なぜなら、破壊的カルトを取り締まるために、尊重すべき人権を、かえって蔑ろにしてしまわないようにするためです。
 
たとえば、カルト問題について議論する際、「信教の自由があるから」「思想・信条の自由があるから」という理由で、問題に踏み込めないかのように言われることがあります。しかし、先ほども言ったように、カルト問題で問われるのは、「何を信じているか」ではなく「何を行っているか」です。思想・信条を問題にするわけではありません。

また、信教の自由とは「宗教を信仰し、宗教上の行為を行う自由」であって、「人権侵害や不法行為を働く自由」ではありません。信教の自由は、宗教を理由にすれば、何でも許されるという権利ではなく、何を信じるか、何を信じないかが尊重される権利です。宗教団体が信者を増やすために犯罪を犯せば、その行為を理由に取り締まりを受けるのは当然です。いくら、信教の自由を叫んだところで、犯罪が許される理由にはなりません。
 
性自認の尊重も、信教の自由と同じく、他者の人権を侵害するための方便にはなりません。信教の自由を尊重することが「信仰を理由にすれば、何でも押し通せるようになること」ではないように、性自認を尊重することも「性自認を理由にしたら、何でも押し通せるようになること」ではありません。最初から、それを良しとする主張ではありません。
 
つまり、信教の自由を「信仰至上主義だ」「カルトを認める思想だ」と捉える時点で歪んでいるように、性自認の尊重を「性自認至上主義だ」「犯罪を認める思想だ」と捉える時点で歪んでいるんです。どのような人権の尊重も「他者の人権を侵害する自由を認めるものとして受け取ってはならない」のが大前提です。
 
では、カルトかどうかの判断材料である「何を行っているか」という視点で、カルトの破壊的要素を取り上げると、大きく分けて、「金銭的被害」「身体的被害」「精神的被害」「関係の破壊」「公共の福祉や利益の侵害」という5つが挙げられます。
 
まず、金銭的被害には、霊感商法、霊視商法、高額献金、詐欺行為などが挙げられます。身体的被害には、性暴力、虐待、奉仕の強要、長時間の拘束など。精神的被害には、メンバーに対するパワハラ、セクハラ、脅し、批判者に対する誹謗中傷などが挙げられます。関係の破壊には、家族・友人関係の破壊や制限。公共の福祉や利益の侵害は、活動による騒音や、施設の無断使用、無許可の貼り紙などが挙げられます。
 
このように、破壊的要素には様々ものが挙げられますが、こういった「具体的な被害をもたらす行動が、具体的な集団において、組織的継続的に行われている」と一つも指摘できない場合、カルト問題として取り上げることはできません。単に「ある集団の中で、ある人たちが問題を起こした」というだけで、その集団をカルトとは言えません。「その集団から指導・コントロールを受けて問題行動を起こした」と言えるかが重要になります。
 
性自認の尊重を求める態度を「性自認至上主義のカルト思想だ」と言う場合、実際に「体が男でも性自認は女だと主張して、性犯罪をしてもいい」「性自認を理由にすれば、施設側の定めたルールを破ってもいい」などの具体的な指導が行われているか、具体的な団体やリーダーを指して指摘できるか、が重要なポイントになってきます。

少なくとも私は、そのような指導をしているLGBTQの支援団体やリーダーを知りません。なお、言ってないことを、言ったかのように、言い直して指摘しても、真っ当な指摘にはなりません。性自認の尊重を「性自認至上主義」と捉える声の中には、あまりにもそれが多すぎます。
 
また、多くの人は、自分が快く思わない集団に対して、問題だと感じる要素を一つでも見つけると、その集団に対して「カルトだ」と言いたくなってしまいます。けれども、これはカルト対策において避けなければならない態度です。なぜなら、破壊的要素の指摘だけで、すぐにカルトと決定することは、現実に即していないからです。
 
たとえば、日本脱カルト教会(略してJSCPR)というところで作られた「集団健康度チェック」では、114項目の破壊的要素が挙げられています。このうち、80項目を超えると「不健康な集団」、さらに、110項目を超えると「非常に不健康な集団」と見なすことができますが、一般企業やサークルでも、それらの項目を有することは珍しくなく、何か一つの項目が当てはまれば、即「カルト」と言うわけではありません。
 
JSCPR の集団健康度チェックは、ネットで検索すれば、誰でも簡単に使えるので、よかったらご覧になってください。おそらく、皆さんが所属している会社、学校、サークル、家庭でチェックしてみたら、1つ2つ、3つ4つくらいは当てはまる……ということが出てくるかと思います。
 
忘れてはいけないのは、どんな集団も少なからず、破壊的要素や破壊的傾向を持っているということです。ある時期、あるメンバーに、ある破壊的要素が見つかっただけで、すぐに「この集団はカルトである」とは言えません。カルトとは、複数の破壊的要素がいくつも積み重なって、組織的に継続されている状態であり、あらゆる集団と無関係ではないんです。
 
したがって、カルト対策で第一にすべきは、その団体が「カルトかどうか」をジャッジすることではありません。その都度、確認された個々の破壊的要素を放置しないで、指摘と改善を進めることです。そもそも「ある団体がカルトかどうかを安易に断言することは避けなければならない」というのがカルト対策をしている人たちの一般的な姿勢です。
 
もし、性自認の尊重を求める団体の中で、何らかの破壊的要素が見られるなら、「カルトかどうか」のジャッジを下すよりも、「この行為は問題だ」「この手段は間違っている」と個々に指摘と批判をして、改善を促すことを第一にすべきです。それなら、カルト対策、カルト化対策として、有効だと思います。

さて、ここまで、カルトかどうかの判断基準は「何を信じているか」や「どんな思想を持っているか」ではなく、「何を行っているか」「不適切な手段を用いるか」が問われることだと説明してきました。しかし、いわゆる「カルト的思想」と呼ばれるものも、カルトの破壊的要素として取り上げられることがあります。
 
いやいや、「思想」や「教え」を問題にしたら、結局のところ「思想・信条の自由」「信教の自由」とぶつかってしまうじゃないか? と思われるかもしれません。もちろん基本的には、何を教えとして信じ、どんな思想を持つかは個々人の自由です。では、「カルト的思想」と言われるものは何なのかと言うと、「不法行為や暴力に直結する教えや思想」を指しています。
 
たとえば、人種差別や民族差別、虐待や医療拒否、暴力的な支配関係を支持する思想です。これらは、特定の人種の排除を促したり、信者の子どもへの虐待を促したり、不法行為を命じる指導者に従わせたり、様々な暴力や被害に直結するため、「カルト的思想」と言われます。
 
また、誤った治療法、誤った病気や障害の理解、誤った教育方法など、健康被害や人命に直結する教えや思想も、カルト的思想と言うことがあります。このように、カルトの思想が問われる場合は、それが反社会的な行動に直結する、健康被害や人命に直結する場合です。単に、誰かから見て「おかしい」「変だ」「受け入れられない」というだけで、カルト的思想と断言することは、避けなければなりません。
 
性自認の尊重については、「体が男でも自分は女だと言ったら女湯に入れる、女子トイレに入れる」「だから、性犯罪につながる」と言っている人たちがいますが、性自認が尊重される世界でも、そんなことしたら通報されますし、警察に捕まりますし、実態が伴っていない主張だったら、当然罪に問われます。
 
犯罪目的で女子トイレに入った人が、トランスジェンダーを装って、「体は男だけど性自認は女だ」と主張して、やり過ごそうとしたところで、騒ぎを起こした時点で「社会的に死ぬ」ことは目に見えています。目立って、晒されて、生活に支障が出てきます。万が一、法で裁かれなかったとしても、今までどおり、職場や学校や家庭で過ごすことはできません。
 
皆さんの知り合いの男性で「性自認は女だと言えば許される」と言って、女子トイレや女湯に入ろうとする人がどれだけ出てくるか考えてください。現実的じゃないはずです。また、それをやる人は、性自認の尊重がされてもされなくても、どこかで犯罪を犯します。社会的にどう見られるかを気にしない人に対して、性自認の尊重をしないことで犯罪を防ぐことはできません。
 
トランスジェンダーの当事者も、性別違和で苦しんでいるのに、わざわざ自分の違和感を強調するような体の晒し方を好んでやろうとは思いません。好んでやるとしたら、それは「トランスジェンダーの性質」ではなく「その人の性質」です。多くのトランスジェンダーは、自分の体を人に晒して、トランスジェンダーとして見られたいのではなく、移行先の性別に埋没して、普通に生活することを望みます。
 
私たちがトランスジェンダーとして意識できる相手は、トランスジェンダーであることを公にしているか、公にせざるを得ない状態の人だけです。大半の当事者は、私たちと同じように、私たちの隣に、前に、後ろにいて、普通に生活しているんです。私も今まで、本人から言われずに、相手がトランスジェンダーだと気づいたことは一度もありません。

ニュースや報道で話題になるのは、普通に生活している人たちではなく、事件を起こした人やトラブルになる人です。世間でトランスジェンダーの存在が可視化されるのは、当事者の中でも、ほんの一部の問題を起こす人たちです。それは、シスジェンダーの中に問題を起こす人たちがいるのと同じであって、トランスジェンダーという属性を犯罪に結びつけて良い理由にはなりません。
 
つまり、性自認を尊重するようになったら、それを利用した犯罪をみんながやるようになるなんて、現実的に無理がある、恐怖や不安をあおった話なんです。性自認の尊重は、犯罪者がそんな都合よく使えるものじゃなくて、出生時に割り当てられた性と性自認の一致しない人が、少しでも生きやすくなるための訴えなんです。
 
「犯罪をしていい」という主張でも「女性を傷つけていい」という主張でもありません。トランスジェンダーの人たちが、これからも普通に生活ができるようにするための主張です。それを「カルト的思想」として扱うことは、むしろ、性自認に沿ったあり方を求める人たち、トランスジェンダーの人たちを「悪魔化」してしまう恐ろしい態度です。
 
おそらく、これを聞いても「性自認の尊重を訴える活動家やトランス女性の中に、犯罪を犯した人や、不適切な言動を行った人がいるじゃないか」と言われる方が出てくると思います。それは、いるでしょう。どんな属性の人たちにも、犯罪者や問題のある人たちはいます。
 
商業団体にも、思想政治団体にも、心理療法の界隈にも、カルト団体が存在するように、性自認の尊重を訴える集団の中にも、不適切な指導や運営を行っている個人や団体は出てくると思います。医者や看護師などの医療従事者の中にも、ニセ医学を広める人がいるように、トランスジェンダーの支援者や当事者の中にも、誤った発信や行為をする人は出てきます。それらは個々に問題を指摘して、糾弾していくべきです。
 
しかし、特定のテーマを扱っているという理由で、一括りにカルトと称するのは間違いです。環境保護運動や動物愛護団体の中に、過激な人たちがいたとしても、環境保護や動物愛護をカルト的思想とは言えないように、性自認の尊重を求めることを、一括りでカルト的思想とは言えません。それは乱暴なまとめ方で、カルト対策の基本姿勢から外れています。
 
以上のように、性自認の尊重をカルト的思想として扱うことは間違っています。むしろ、これまで積み上げられてきたカルト対策の基本と前提を崩してしまう行為です。犯罪の防止にもなりません。かえって、トランスジェンダーの当事者に対する恐怖をあおり、もともと望んでいなかったヘイトクライムを引き起こすことになりかねません。

ぜひ、破壊的カルトやカルト対策に関する正しい知識を身につけて、個々の主張や行動と、誠実に向き合うようにしてください。あらゆる差別と暴力は、恐怖と支配欲を燃料に燃え上がります。何かに危機感を持ったときにこそ、恐怖と正しく向き合えているか、私自身も繰り返し自分に問いたいと思います。


*カルト問題の基本について、より詳しい説明は下記のリンクから見られます。


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