ぶっ殺しのノート。ぶっ殺しのリベラルアーツ。ぶっ殺し大学。

連日の不眠のため右目が痛む。頭の回転がよくなると、布団に入っても一向に眠たくならず、徹夜したり、二、三時間の睡眠になったりする。で、肉体的に立ち行かなくなると鬱になり、二、三日寝込み態勢を立て直すというパターンをこれまで繰り返してきた。肉体に蓄積しつつあるダメージを逓減するよう工夫はしているのだが、やや対応しきれていない。本日は、この文章を書いてのち、PC画面を凝視する作業は、一切取りやめよう。昨日も30分以上PCを見ると、目が痒くなるという状態だった。また、僕はこれらの文章を元に文学賞投稿用のエッセイを作成しよう、そのためこれらの文章は一般に非公開でいようと思っていたのだが、考えが変わった。これらの文章を元にエッセイを作成するかどうかは未定だが、一般への公開は差し控えないことにする。我ながら大切なことをこれでもかと書いている以上、自分たちの手元だけで隠すように共有するのは、不満足だと思ったからだ。ここ数日、教育についてあれこれアイデアを並行して考えている。いくつか列挙する。学校で使用するノートを罫線の入っていない白紙ノートにする、そのように生徒に推奨する、というアイデア。僕が現在使用しているノートはドローイング用の薄めの真っ白な画用紙を綴じたものと新聞などをスクラップする用に作られた茶色地これまた罫線の入っていないノートだ。僕が高校生だった当時、東大生のノートは皆美しい、みたいな本が流行した。また、ロジカルノートと称して、どこが論理的なのかよくわからないが、等間隔にグリッドの入ったノートが現在でもとても流行っている。実は僕も一時期使用していたが。素朴に考えて、ノートン罫線やグリッドなどがあると、ノート書き込み時に思考を制限される罫線に沿って字を書かなければならない、とか、罫線からずれた字は「汚い」という価値観が無自覚のうちに生じてしまう。そもそも論だが、美しい美しくないという価値観は、ある基準から逸脱すると美しくない、という価値観が先にあり、その後発生する。つまり、例えばだが、東大生がノートに書くような内容を仮に砂浜一面に書いて見たとしよう、果たしてそれを美しいと一般大衆は感じるだろうか?また、油絵を描くようなカンバスに東大に合格しそうな高校生の数学ノートを模写したら、それを美しいと思うだろうか。多分だけれど、この場合、多くの人は美しい美しくない以前に、「なんでこんな場所にこんなもん書いているんだろう?何かのパフォーマンスかな」と思うはずだ。つまり、東大生のノートは学習ノートとはかくあるべきという偏見を離れてノート以外の場所で書かれた場合、特に一般に美しいとは感じられない。この程度の想定で破綻する命題が、東大生のノートは皆美しい、である。まあ、さておき、この頃俺は自分の発想を広げるため、と、単に罫線などがあると俺自身の字が見にくい、と、罫線に字を収めるのが苦手、などといった理由から、白紙ノートを利用している。で、小学生などにもこの方法を推奨したら良さそうだな、と思う。第一に、これは子供達に、自分の感性に赴くままのノートを作ってもいいよ、というメッセージになる。第二に、教師など大人は、その自由に作成されたノートから、子供達の歓声がどのようなものであるか、を読み取るヒントを得られる。まあ、例えば、好きな色、とか、何と何との間に関係性を見出しているのか、とか。規格化されたノート術でノートを作成されても、その子の人となりは見えにくい。また、互いに自由にノートを描くからこそ、互いのノートがそれぞれ異なる形式で書かれるために、互いのノートが参考になる。ある知識が的確にまとめられているからこそあるノートは有用だ、というのがこれまでの発想だろうが、あらゆるノートにことなる色彩でことなる思考が書かれているからこそ、全てのノートが参考材料となりうる、というのがここでの発想となる。目が少し疲れてきたので、小休憩を取る。ノートについていえば、自由にノートを作成できるからこそ、授業時にノートを取る必要はなくなる。仮に予習と復習をするなら、予習時や復習時にちょろちょろっと思いついたことや引っかかったことをノートにまとめておけばいい。あくまで一つのモデルとして説明すると、1)予習として教科書にざっと目を通す。2)その後気になった用語とか考え方とかふと思いついたことなどをノートに書き留める。3)書きながらあれこれ発想を膨らまし、適当に思いつく仮説や理論などを図などを使ってノートにスケッチする。4)その後実際に授業を受ける。5)授業の最中はノートを取るのではなく、すでに作成したノートをチラチラ眺めながら自分の発想と教師の話との関連性などをチェックして見る、また教師の話をあれこれ考えながら聞く。6)授業終わってから、授業を聞いて思いついたこととか、自分にとって大切そうなことをノートに追記していく。7)このノートをネタ帳に友達に適当な講義をして見る。8)その結果思いついたことなどをさらに書いて見る。9)また、随時思いついたことなどをノートに記録したり、そこらへんの地面とか黒板に落書きして見る。めちゃくちゃ真面目な生徒をモデルケースとして提示してしまったが、こんなところでいいだろう。正直、ノートなど「何かを思いついたらその思いつきを膨らますため」および「後日見返して自分自身のアイデアを蘇らせるため」くらいの目的で良いと思う。アイデアとはふとしたことで思いつくものだが、まあ、だいたい気がつかないうちに忘れてしまうことでもある。そして、アイデアほど自分自身の知性と密接に絡み合った記憶はない。他人に言葉だけで教わったことより自分の発想の方がより肉感的だ。で、そうした肉感的だが忘れてしまったアイデアをノートなどを使って不意に思い出させてやると、知性にすごい刺激になる。簡単にいえば「自分のアイデアであるからこそ、すごく理解できる、細部まで想像の及ぶ発想」を「ノートという自分の文字だからこそ記憶の蘇りにすごく効果的なメディアを使って、一瞬で思い出す」というのは、光ファイバーなど問題にならないほど凄まじい情報速度を生む。これまでは他人の話という自分の知性とあまり繋がりのない内容を思い出すためにノートが使われてきたが、自分の知性ととても繋がりのある、過去の自分が思いついたこと、を思い出すためにノートを使う、という方法をここでは提示している。ノートについてまだ語れるが、まあ、このくらいでいい。教師は生徒を電卓のような計算機として捉えるとよい。生徒を電卓扱いしたらいい。電卓とは何か、という、自分で計算するのは面倒だったり、計算が複雑で自分で計算するとミスをおかしそうな時に使う計算機だ。いうまでもないことだが、電卓というのは、電卓を使う人類より計算がうまい。子供を電卓扱いしろ、というと子供をもの扱いしろってことか、と思われるかもしれないが、ここでいうもの、とは、特定の能力が自分よりはるかに上回っているものだったりする。まあ、より具体的に言うと、「自分にとって未解決な問題を解決する道具(計算機)として子供を使えばいい教育になるし、それが教育の本義だろう」と言っている。小学校ん算数のような大人が暗算すればすぐに答えが出るような計算問題を子供達に提供するのではなく、自分が考えてもすぐにこれという答えが浮かばない問題を、子供達に与える。なぜ、子供と大人と同じ人間なのに、より子供達の方が未解決の難問を解きやすいか、といえば、寿命という残された時間が都市が若いほどより多い傾向にあるからだ。いうまでもなくどんな複雑な計算も時間が無限なら解けるだろう。学校というのは、未解決の問題をずらずらと子供達に教えて、そのうち興味のある問題を子供達自身で解き始めてもらう場所として考えたい。そろそろ目を休めたいので、他にも書きたいことがあるが、最後にもう一つだけ書いて終わりにする。俺は除籍ではあるが、一応大学に在籍したことがあり、その際、ほんと大学って構造がだめだなあ、と思ったのだけれど、どのようなゼミナールがよいか私見を述べる。ちなみに大学が構造できにダメなのは、社会がダメだからだ、人と人との間の絆が十分に醸成されていない、どんどん絆がやせ細っているから、大学の構造も同時に劣化している。だから、大学それ自体を責める問題ではないのだが、そうした問題に自覚的で誠実に善処しようとしている教員はほぼほぼ皆無で、みな既存の大学教員の振る舞い方というマニュアルを演じているだけだ。話がそれるが、俺はこの頃演じるということについて深く考えている。そのうち書ければ、と思う。また、書き足しておくと、アイデアをノートなどにメモすると記憶力が良くなる。要はアイデア単位で、アイデアというさまざまな接続が可能な知的小宇宙単位で記憶が構成されていくので、何年何月何日これこれがあった、という記憶は特に伸びないが、あの時こう考えて、この考えがあの考えと結びつき、今この発想に至ったのだな、とか、アイデアに付随した諸データ、例えば競馬予想に関するアイデアならそれに付随して騎手の名前や競馬場の特徴、馬名や馬主名などなどもアイデアを証明する必要材料として記憶されるだろう、で、結果的に、こいつなんでこんなにあれこれ引用しつつ自分の考えをべらべら喋れるんだ、と思われるようになる。場合によっては、キモいだの、攻撃的な話し方だのと非難されるが、そういう時はぶん殴ってぶっ殺しておけばいい。記憶力が向上する仕組みまでここで解説したのだから、記憶力を発揮している人たちに嫉妬するより、彼らと自分が地続きであることを意識した方がいい。それはさておき、大学のようなゼミナール、少人数での話し合いをメインとした学習では、自由に連想したことを自由気ままにテーマとか決めずにただ話せる空間であればいい。というのも、テーマ、というのは、自由気ままに発言した言葉の中から事後的に適当に見つければいいからだ。という意味では、学部程度の学習でなら、そもそも学問という枠組みを設定する必要はなく、ただ気ままに面談するだけでいい。面談する中で互いの知性で対応していけばいい。ただ、わざわざ話したい相手話したくない相手というのはあるので、当然双方で受け入れられる相手と話し合うべきだ。僕が大学入学時受け付けられなかったのは、指導教授を僕の意思とは無関係に大学側が設定していたことだ。この人の話を聞きたいか聞きたくないか自分で考える時間的余裕を与えられる前に機械的に生徒が割り振られており、僕はそのことに怒りを感じ、結果大学時代はいじけてしまっていた。こいつは俺にとってなんなんだ、と思いながら、教授と対面していた。教授からしたら、学習意欲の低い大多数の学生の一人、と思われただろうが、ペットのように、本人の意思と無関係に教える教わるという上下関係を特定の個人と結ばさせられるというんは、結構やばいことである。そのヤバさに気づかない彼はアホであった。なので、お前はアホである、というテーマのレポートを書いたら大変だった。後半はフィクションである。

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