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ライブを撮影して怒られながら人が自白するプロセスを学ぶ。

とあるライブでアーティストのパフォーマンスをスマートフォンで撮影していたら怒られました。いやいやいや。ついこの間ライブ会場撮影問題に触れておきながら何やってんの? と思われるかもしれません。

ご安心ください。ブシロード15周年記念ライブの一部パフォーマンスについては撮影が許可されていたのです。公式からも案内が出ていました。

にも関わらず、スマホを取り出して楽しく撮影していると、スタッフが飛んできまして。
「ちょっと、何してるの、ダメだよ」
と怒られました。わりと強めに。
「え、この曲はいいんじゃないですか」
と確認するも状況は変わらず。仕方なくスマホを仕舞って不思議な時間を過ごしました。

やってしまったな。何か間違えたのかな。あんな記事を書いた直後にこれは恥ずかし過ぎるぞ。

開演前に仲間内との雑談の中でどの曲が撮影OKかを確認しました。しかしスタッフに怒られたということは実は勘違いでこの曲ではなかったのかもしれません。周りを見渡せば他にも撮影している人がたくさんいました。しかしスタッフに怒られたということは実は見逃されているだけで撮影している人たちがおかしいのかもしれません。いや大丈夫なはずだよなと心の底では思いつつも「スタッフが間違っていて私が正しい」と確信して再びスマホを取り出して撮影する気にはなれませんでした。何よりパフォーマンスを楽しもうというモチベーションがすっかり冷めてしまっていました。

しばらくするとまたスタッフが飛んできまして。この曲だけは撮影OKだったと謝ってくれました。よかった。冤罪だった。再びスマホを取り出して後半にトロッコで現れた木谷さんを撮影することもできました。めでたしめでたし。

こうして、結果的には何も悪いことをすることなくノーリスクで、悪いことをするとこういう感じで怒られるんだなという貴重な体験をすることができました。したくなかった。普通にヘコむ。

さて、状況証拠は自分が正しいことを示唆しているのに自分を疑い始める心理状態を味わったことで、自白する人の気持ちが少しわかったような気がしました。

今回、開放空間で周りに人がいて状況証拠を提示できる状態でも突然現れたスタッフが相手だと自分を信じ切ることができなかったわけです。取調室のような閉鎖空間で警察官や検察官から詰め寄られたときに「私はやってない」と強気に出ることができるでしょうか。認知が歪み、自分がやった可能性について聞かれたら「私がやった可能性は否定できない」と言ってしまうのではないでしょうか。私言いそう。たぶん言う。部分的にでも認めてしまえばそれは終わりの始まりです。

自分にやった自覚がある場合はさておき、自分が主観的にやっていないのであれば、やっていないとブレずに貫き通す強さが必要です。相手の主観と見解が一致していなければ客観的に法の場で争えばよい。と口で言うのは簡単ですが、威圧的に対応することをはじめ、その強さをへし折るためのシステムがうまいこと構築されていたりするのでしょう。

この手の話を聞くといつも「折れなきゃいいじゃん」と思っていましたし、今回の経験を人に話したところ「この曲は撮影していいって言い張ればいいじゃん」と言われました。しかし実際に身に降りかかってみると、頭でわかっていても行動に移すことができなかったのです。「自分が折れてしまう側の人間なんだ」ということが改めてわかっただけでも、今回はいい経験をさせてもらえたということで。

とはいえ、いきなり罪なき罪で怒られて気分がよかったわけではありません。今後はスタッフへの周知を徹底したり演者に撮影してもいい曲であることを宣言させたりしてもらえるといいな思います。普通にヘコむ。

余談
曲中に謝罪に来てくれたときに私がムッとしていたせいか、曲が終わったあとにも改めてもう一度謝罪に来てくれました。わざわざありがとうございました。大丈夫、怒ってないよ、ちょっとしか(こうしてネタにもできたので今は本当に怒っていません)。

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