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強力な形式美



 先週、茨城県にある水戸芸術館へジェニーホルツアー展を見に行きました。
 ジェニーホルツァーの作品は、彼女の編む言葉の意味内容が重要とされています。その言葉は、社会の中での悲惨な状況の心理を表したものが多く、時には嫌悪感を及ぼすほど、直接的です。

 そのままでは、触れると切り刻まれてしまうような言葉には、美術としての形式が見事なまでに与えられています。見慣れた電光掲示板や石碑のような御影石という支持体は、言葉がそこにあっても何の不思議もなく、額縁の中に絵が入っていることや、台座の上に彫刻がのっていることのように機能しています。
 それらの作品は、列車の中であったり街角であったりといった、美術館以外の場所へと展開しても、もともとのすみかの場所に戻る訳ですから、揺るぎない強力さをもっています。
 この安定した形式が、見る者へ感情に訴えかけることばを、事前に拒絶しないで、内容を理解させる方向へと連れて行く役割を果たしていると言えるでしょう。

 けれども、形式の安定と強力さゆえに、わたしは、自分の想像力を止められるように思ったのは事実です。作品の意味内容を理解しなくてはならないのであれば、見る者は、限りなく作者の想像力に追いつき、近づこうとする道しか歩めないようにも思えたのです。

 ボスニア ヘルツェゴビナの争いで起きた悲惨な集団暴行事件に誘発されて書かれたという「暴行殺人」という作品の前で、強靭な言語と形式美に圧倒されることに恐れおののき、身体が反発していたのは、たとえそれが美術家のなせる技としても、強力な形式で非力を扱うことへの不安があったからかもしれません。(現代美術家)

2022年4月24日改訂  1994年9月2日 讀賣新聞夕刊『潮音風声』掲載

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