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大阪中之島美術館

 明日から二月になる。二月二日は猫の日『にゃんにゃんデー』だ。その日に、大阪中之島美術館はグランドオープンを迎える。まだ工事中の部分も残っているが、昨日は内覧する機会に恵まれた。このことは、自分の一つの節目として、大雑把ではあるが、書いておこうと思う。

 大阪市が市政100周年記念事業基本構想の一つとして、『近代美術館』の建設を発表したのが1983年のことだった。その後、構想委員会や美術品等取得基金設置などを経て、1990年に『近代美術館建設準備室』が設立する。大阪市公営のものでは、天王寺公園内の『大阪市立美術館』と『東洋陶磁器美術館』が既にあったが、天王寺の『大阪市立美術館』は団体展への貸開場の役目に終始していた。おりしも好景気の80年代、時代の流れは各地方行政や企業に、美術館建設を促していた。

 大阪市は都市でありながら、コレクションを持ち、現代の美術企画展をする機能がまだ備わっていなかった。大阪万博の時にできた国立国際美術館が、コレクションを続けて先鋭的な現代作家の企画展を行っていた。国立と地方の違いはあれども、30代だった駆け出しの私は、新聞のプレス発表記事を読んで、とても嬉しくなり、この街で作家活動を続けていける期待に胸を膨らませていた。私設を含めると、京都、神戸、大阪、滋賀に和歌山と、関西圏を回るだけでも充実した鑑賞体験ができた時期だった。

 『近代美術館建設準備室』に赴任された方々は、これから建てる美術館の展示空間や機能、何がこれから必要なのかと、若い作家の意見をよく聞いておられた。私もその場に数回参加させてもらったことがある。今はハルカスが聳え立つ阿倍野。その両側に古い商店街がまだあった頃に、『明治屋』という名物の居酒屋があった。そこでベロベロになりながら、美術館の機能や役割について、担当の学芸員の方と作家たちが、和気藹々と話していたことを思い出す。『明治屋』も阿倍野の再開発と共に、よき居酒屋として残ることはできなかった。そして『近代美術館建設準備室』は、設立後程なく苦難の長い迷路に入ることになるとは、誰も予想はしていなかった。2000年代に入ると『近代美術館構想』は、一度は白紙に戻ってしまうのではないかという、危機さえあった。

 コレクションは、最初モジリアニの『横たわる裸婦』を購入したことで、『税金の無駄遣い』と、お決まりの苦情も散々受けはしたが、美術館建設が迷路に入った後も継続された。寄贈も含めて、デザインの領域にまたがり、建築物としての美術館はなけれども、コレクションは増えていく。大阪ではお目にかかることはなくても、様々な美術館の企画展にコレクション作品は出張していった。『美術館のない美術館もいいんじゃないか』と、長年主になって担当されていた方が、笑って言われた時もあった。大阪市の持つ6000点のコレクション。その全貌は、わからない。これから徐々にお目にかかることができることだろう。

 時代と共に美術館の役割も変わっていく。舞台芸術と違い、鑑賞体験は、収益性の振り幅がとても大きい。中には、やはり良いものもあるので、否定はしないが、『ほら、あの人の絵をもう見た?』という展覧会は、もはやそれほど良いサービスを提供していると言えない。構想当初から30年間、残念な思いが続いたが、その間の時代の変化がふるいになって、今の世で変わらざるを得ないところと、残すべきところ、これから100年先の人材のために建てることができたことは、幸いとするべきことだ。

 株式会社大阪中之島ミュージアムとして、先見性のある時代の商都、財を成して文化を残す気風が、土佐堀川から海へ山へと軽やかに流れていけばよい。30年間を振り返ることになって、しばらく夢見から覚めた私は、新しい美術館のリーフレットに手を伸ばす。

誌面を開いた手の皺をじっと見ると、懐かしい時間はそこにあり、これからも皺を増やしてやろうかしらと、私は弱々しくほくそ笑んだ。

2022年1月31日 筆

©松井智惠

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