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映画『ヴィトゲンシュタイン』を見て

 この映画は愛らしい。この愛らしい寓話を作った人々に、わたしは少し嫉妬を覚えている。もし、この映画の中に現れる女性のように、「知らない。」と言えるなら、わたしの嫉妬は起こらないであろうに。


 哲学者は、寓話の主人公には元来なれない者である。哲学者はお話しの外側を飛び回りながら謎や問を与え、かつそれに答えを与えるエーテルの役割を果たす。哲学者の人生は、お話しの骨格そのものを築く営みである(この映画の中では、ヴィトゲンシュタインが、彼の趣味の骨格標本に触れていないのが、個人的には残念である。)。そして哲学者は、自ら築いたお話しの場に降り立ち、自由にふるまう主人公になることはできない宿命を会わせもつ。

 活き活きとした生に憧れる哲学者にとっては、労働者となって働く自分を、演じさせてみたかったのだろうが、それがあたわぬ事は、自明で悲しい。そのような哲学者を主人公としていること事体が、この映画の愛らしさを支えている制作者の愛情表現だとわたしは思っている。かくして、この映画で主人公たり得た哲学者は、人々が望む天才像を満たした愛される狂人を演じる。愛される狂人とは、常に愛情を求めつづける業苦から逃れられないという、完璧なまでに重い荷を背に、天に昇ることも、地に足をつけることもできない身をもつ者である。逃れることに疲労した彼は、つるつるとした表面をもつ哲学の結晶体の構造を捨てて、一体どんな面に降りようとしていたのだろうか。

 わたしには、研磨された表面を自ら作ろうとしていたように思えてならない。気の遠くなるような労働の跡として、ざらざらにする事とつるつるにする事とが、同じ表面で同時に行われる現実としての研磨作業。有ることと無いこととが同時に起こる世界。それは『知らない事を知る』という哲学の領域から、『知らない。』という宗教的地点に降り立つことだったのではないのだろうか。


2021年9月8日改訂 / 1994年3月19日執筆、『花形文化通信』19994, 04, No.59に掲載

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