感想:映画『銀座カンカン娘』 色のない世界で色を歌う

【製作:日本 1949年公開】

戦争で家族を失った画家志望の秋と歌手志望の春は、落語家・新笑の家に居候している。
仕事がなく、新笑への家賃も十分に払えないふたりだが、画材やピアノを購入したいと歌い、夢を語る暮らしを送っていた。
ある日、ひょんなことから映画撮影に協力することになった彼女達は、そこで出会った演奏家の白井に誘われ、銀座の盛り場で歌うようになる。
多くの人が不安定な暮らしを送る復興期に、たくましくエンターテインメントを届ける人々の姿を描く。

1949年に公開された本作は、ミュージカル調の歌やスラップスティックコメディ、落語など、様々な演芸のプログラムを1本の映像にまとめた、「劇場で行う見世物」としての性質が強い映画作品である。 
家族の死、経済的な困難、リストラなど、深刻な事情を抱えながらも、希望を持ち前向きに生きる登場人物と、笑いや刺激を誘発する演芸を詰め合わせた本作からは、当時の観客が映画に求めていたものが窺える。

中でも印象的だったのは、モノクロ映画である本作が「色」を歌うことだ。秋が絵の具を求める画家志望者であることをはじめ、彼女と武助とのミュージカルナンバーでも空や大地の色が歌詞に織り込まれ、彼らが「色」を希求していることがわかる。
着るものがなくシーツを腰に巻いての『ロミオとジュリエット』調の掛け合いや、畦道での歌唱は、登場人物の生活に戦争の爪痕が深く残っていることを象徴する。一方で、彼らが迷いなく夢を信じ、「色」を手に入れようとしていることから、時代や社会にポジティブな潮流があったことや、当時のメディアや観客の多くがそうした姿勢を理想としていたことも示される。

また、老夫婦と甥と孫、知人の娘とその友人が同居する新笑の家は、戦争で家や近しい人を失くし、多くの人が互助的に生きていたことを示す。
"家庭"内では血縁やコネクションの有無が重視されるなど、多様な人々が支え合うコミュニティとは言いきれないが、「相互に関心を持ち助け合う社会」「地域全体で行う子育て」というノスタルジーの源流のひとつとして、こうした戦後の社会の在り方があるのだなと納得がいった。
また、男性観も戦後らしいものであると感じた。
武助、新笑、白井は、外見や能力が必ずしもステレオタイプな「男らしさ」に当てはまらない人物像である。新笑や白井が主要登場人物であることは、若年〜壮年層の「働きざかり」の男性が戦争によって多く命を落とした時代背景が窺える。また、青年である武助も、リストラに遭った際に失職より合唱部の解散を気にかけ、他人を殴ることをよしとしない価値観を持つ。
一方的に傷つけられ、顔を包帯や絆創膏だらけにした男性を「ヒーロー」とする物語は、戦前・戦中ではなかなかないのではと思う。敗戦によるパラダイムシフトが窺える描写だった(とはいえ、家父長制はばっちり残っているのだが)

本作のタイトルでもある『銀座カンカン娘』は、当時のセックスワーカー(いわゆる「パンパン」)が溢れる世相への抵抗を描いた曲だという。
セックスワークへの偏見が前提にあり、さらに社会と女性のどちらに矛を向けているかわからない、という問題点はあるが、活発な女性の姿を肯定的に描いている作品だったと思う。
特に中盤までの、秋と春が軽快に貧乏を嘆き、互いに励まし合って生きる様子はシスターフッド的でとても良かった。とりわけ、夜の銀座で絡まれないように、ペアで刺青風の墨絵を腕に入れるシーンが微笑ましかった。
作品そのものののプロットが細切れであるとはいえ、秋と春の友情が秋と武助のロマンスにかき消されるような形の構成は個人的には不満だった。

高度経済成長期を控えた日本の価値観やムードが垣間見える描写が多く、後の時代の邦画の比較という意味でも面白かった。同時代の他の作品も観てみたいと思う。

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