感想:映画『17歳のカルテ』 長居できない"居場所"

【製作:アメリカ合衆国、ドイツ 1999年公開(日本公開:2000年)】

1960年代の米国。酒と薬を多量に飲んで昏睡状態に陥ったスザンナは、家族の意向で精神病棟に入院することになる。
そこには、様々な背景や症状を抱える同世代の患者達がいた。
彼女達は協力してルールを破りながら入院生活に楽しみを見出し、メンタルが著しく不安定になった際には互いに支え合う。最初は戸惑っていたスザンナも、次第に患者達に馴染み、中でも好戦的で牽引力のあるリサとよく行動をともにするようになる。
しかし、リサと病院を脱走した際に起こった出来事によって、スザンナの心境と思考にはさらなる変化が生じる。

本作は、社会と距離を置く(置かれる)場所としての精神病棟を通じて、社会における「健全」や「幸福」の概念の歪みを暴くとともに、社会や自己に向き合わず、病棟に留まり続ける患者の姿勢に対しても批判的な目を向ける。

原題"girls,interrupted"が示すように、この映画において精神病棟での時間は人生の「中断」と捉えられる。作中では1960年代の米国における精神疾患へのスティグマに触れられており、物理的にも、社会的な文脈においても社会から隔絶されるという点で、患者の少女達はライフプランを遂行できない状態にある。

ただし、滞りなく人生を送ることが必ずしも幸福とは言い切れない。
主人公スザンナは裕福な家庭に育つものの、レールを敷かれた人生に違和感を持ち、同級生でただひとり大学に進学しないことを決める。
ベリーショートの髪型、酒やタバコに親しんでいること、妻帯者を含めた複数の男性とセックスをすることなど、彼女の容姿や行動は中流階級において理想とされる女性像に抗うものだ。
しばしばホームパーティーが開かれ、経済的に不自由なく生活できる環境の中で、社会問題に関心を持ち、カウンターカルチャーに興味を示すスザンナは異質な存在である。
そして、前者の「幸せな家庭」が、現実に存在する問題を透明化することで成立する様子が作中では描かれる。
入院患者のひとりであるデイジーは、摂食障害が寛解しつつあるとみなされ、作中で退院する。
彼女は退院後、父親にメゾネットの一室を与えられ、華やかなインテリアに囲まれて生活を始める。その暮らしは一見幸福なものにみえる。
しかし、実際にはデイジーの摂食障害の症状は継続して表れていた。父親に差し入れされたチキンパイを食べず、処分もせず、病室のベッドの下に隠し続けるその行動は、彼女が自分の抱える問題を覆い隠して社会に戻ったことを示す。
デイジーは父親に肉体関係を強いられており、退院後のメゾネットでの暮らしは性的虐待と切り離せないものだった。
彼女は父親に愛されていると口にするものの、心身にダメージを負っており、日常的に自傷行為を行っている。そして、病院から脱走してきたリサに肉体関係を看破され、自分の置かれた状況を言語化して突きつけられたことで、耐えられなくなり、自死に及ぶ。
縊死を遂げたデイジーの遺体をスザンナが発見するシークエンスでは、ホラー映画でみられるような、鑑賞者の恐怖を煽る間合いの演出がとられる。
しかし、スザンナが目の当たりにするのはフィクショナルな脅威ではなく、現実に生じている問題であり、実際に傷つき命を絶った身体である。

社会においては、立場の弱い者が心身を傷つけられる状況が隠蔽されることがある。
本作では、傷ついた人間を「規格外」とみなし、疎外することで、コミュニティが滞りなく機能しているようにみせる構図が明らかにされる。
社会から離れ、時には偏見をもとにしたレッテルを貼られる患者達が、「健全」な人々以上に社会に対し真摯かつ冷静な眼差しを向けていることが本作ではたびたび描かれる(キング牧師暗殺のニュースを一同が食い入るように眺めるシーンが印象的だった)
特に彼女達が看護師の引率のもと病院外のアイスクリームショップに赴くシーンは、社会の欺瞞を暴くカタルシスを含んでいたと感じる。

また、10代の女性を主要登場人物に据えた作品として、男性の庇護下に置かれることを安易な「解決」としない姿勢も真摯だと感じた。
デイジーの顛末に加え、スザンナとセックスをした男性達が彼女を幸福にしない存在として描かれ、彼女が働きながらひとり暮らしを始めることが「回復」と位置付けられていることからも、女性が自らの足で歩くことに重きを置いているといえる。

一方、自分の内面を文章・絵画で積極的に表現するようになったスザンナが退院して社会に戻る一連の描写から、本作は社会に絶望して病棟に留まり続けることもまた肯定しない。
社会から一定期間離れ、似た属性を持つ患者達で集まることは、傷ついた心身を癒すことにつながるが、その後は自分の傷や特性を認識・把握し、社会の中でいかに自己を守り、自分なりに生活を築くかを考える必要がある。
病院に留まり続ける膠着状態は、彼女達を傷つけた社会と形は違えど同質の、硬直した内向きのコミュニティを生み出してしまう。
また、就労支援プログラム等に乏しい当時の病院の性質上、入院したままでは自分で生活する力が身につかないのも、本作が長期入院に否定的な理由といえる。

人を追い詰め、その存在を排斥する社会にも、同じ場所に留まり続ける患者にも批判的なまなざしを向ける本作の姿勢はシビアだが、個人的には人間の尊厳や生活に対して誠実な態度だと感じられた。

なお、本作の患者役の俳優はいずれも当時20代半ばほどであり、演ずるキャラクターより年上である(主演のウィノナ・ライダーは公開当時28歳)
ハリウッドの青春映画ではしばしばみられるキャスティングの傾向ではあるものの、こうした点からも、少女を安易に搾取・消費しない姿勢が窺える。
リサを演じるアンジェリーナ・ジョリーの、能動性や堂々とした振る舞いと脆さがないまぜになった演技が特に印象的だった。

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