見出し画像

芸術にコミットする時の〈痛み〉や〈不調〉を引き受けるということ

芸術って自分にとってなんやろうなぁと常日頃、考えてる。

コロナ禍で、「不要不急」が叫ばれた時、芸術ってどのくらい自分にとって、あるいは社会にとって必要なのだろうかと思った。芸術を「不要」とする社会って存在するであるのだろうか。

もちろん、「平時」と「非常事態」下では状況が違う。では、たったいま、長くてもこの1ヶ月という期間限定で、芸術というものから遠ざかっても大丈夫だろうか、それが自分にとってどういうことを意味するのか、芸術というものが、(少なくとも)自分にとってどういう位置づけであるのかを考えてみた。

最近、芸術というものが、良くも悪くも体に直接的な影響を与えてきていることをひしひしと感じている。それは1つに「アートセラピー」というのか、芸術療法的なものではないかと思っている。日本では、アートセラピーという名で知られているが、わたしにとってはその海外のものや日本のそれとは別な形で、芸術がアートセラピー的な役割りを果たしているような気がする。

ただ、日本で主流である「自らの表現活動を通して表出することで癒やされたり、「自己成長」するという」アートセラピーと違っている。わたし自身、しんどくて病んでいた時、絵を描くことで自らの傷を結果的に癒やした経験もある。治癒しようとして描いたわけではない。「描かざるを得なかった」、何を描こうなんて考えることもなく、とにかく我構わずというのか、無我夢中で描いた。自画像だった。描いた後、何かが変わった。「癒やされた」、病んでいるのが「治った」ということばで認識できるほどはっきりしたものではなく、描くことで、時間と共に自然に解放されたような感じだった。治癒的な目的で行ったわけではなく、あくまでも「描いた」結果として見えてきたこと。

最近は、そういった自己表出というのか、アウトプットではなく、むしろ鑑賞型、〈インプットの芸術療法〉が自分にとって非常に重要なウェイトを占めていることを知った。それはまさに「不要不急」が叫ばれたコロナ禍において。それ以前からも、芸術作品を鑑賞したりその作品に触れたりすること(実際に、手で触るという意味ではなく、コミットするということ)で、そこから反応して刺激をもらったり、感動して体内に取り込むことで、「癒やされる」こともあった。(「癒やされる」ということどういうことなのかについては、ここではあまり吟味せず、イメージとして捉えている)

しかし、厳密に言えば、そのような鑑賞型療法が如実に体内に現れたのは、コロナ後のことである。それは、2週間ほど前のこと。ある映画に出逢ったことが始まりだった。「癒やす」というと、例えば心が軽くなったり、痛みが緩和されたり、つらさや苦しみを減らすことだと思われそうだ。しかし、今回のわたしにとって、その日以降、そして現在までも続く体の不調も自分にとってはある種の「癒し」であるような気がしてならない。

癒やしということばが少し誤解を招くこともあるため、違うことばで表現してみよう。それは、芸術によって、無自覚にも刺激を受け、気持ちや感情よりも先に体の支障をきたしたことで起こった。まさにそれは解毒作用の一過程のようなもの。解脱とまでは言わないが、脱皮のような、これまでのものとは違う新しい〈世界観の構築〉へもつながっていくような(はっきりとまだわからない)。当たり前のことではあるが、これまでのすべてが破壊されたのではない。そこから脱出したのでもない。これまでの芸術的感性の土台の上にさらに新しい世界観がのっかってきた。脱皮したところで、これまで42年余り積み上げてきた経験や感性や肉体がなくなることを意味しない。しかし、それでもなお、成長し続けるため(あるいはもしかしたら堕落していくこと)の脱皮を望もうとも望まなくとも、自然のなりゆきとして行ったのかもしれない。

これまでなにげに見てきた芸術作品の中で、稀に胸をかきまわされる衝撃的な接触、摩擦がおきることがある。異物や自分の根底にあるものを揺るがすものに出逢うこと、そしてそれを取り込むことで起こる作用。その作用は一見したところ、受精したあとに、自分の体内に異物が侵入してきたことへの反応で、つわりが起こることと似ている。それは、むしろ癒やされるのと対局にある(と一見思いがちな)痛みからの芸術療法もあるものだということに気づいた。社会ではそんなもの、メジャーにならないかもしれない。いや、きっと認められないだろう。そんなことはどうでもよい。わたしだけが自分を癒す方法、別の言い方をすれば、脱皮する方法がこんなところで見つかったということに気づけばいい。いや、気付こうが気付かまいがそんなに重要ではない。

大事なのは、そこから自分の体に不健康な症状がでていることを受け止め、変化していくこと、新たな世界観を築いていくこと(もうすでに第一歩は進んでいる)だけである。

体に支障をきたしていることを「調子が悪い」と悲観する必要はない。成長期に足が大きくなり、その時履いていた靴に窮屈さや実際の痛みを感じることもある、そんな状況なのである。

つまり、芸術と対面する時、そこで衝撃的な出逢いやコミットメントがおこる時、その痛みは必要不可欠なものである。そして、しばらくは自由に体が動かせなかったり、アウトプットである芸術を生み出すことができなかったとしても、何も焦ることはない。

その〈不調〉や〈痛み〉をとことん引き受け、さてそろそろ体を起こせるときが来たとなった時に、自分の足で立てばいい。筆をもてばいい。手を動かせばいい。踊ればいいのだー

(こちらは、6月中旬に記載したものです)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?