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人生、狂ってなんぼの『セッション』

多分、10回以上は観ているであろう『セッション』。
観るたびに感じ方が変わる。

常人には理解できない狂人の世界

この映画の感想を一言で言うならば、「狂ってる」だ。

ジャズに狂った指導者とドラマー、この二人の狂った物語が、狂ったように進んでいく。それがこの映画だと思う。ただ、そんな狂った二人の姿に不思議と勇気をもらえる。むしろ、狂人のこの二人だからこそ、常人には伝えられないメッセージ性が、僕らみたいな狂った人間には突き刺さるんだろう。

それでも、狂っている人間が同じく狂っている人間の事を理解できるかというとそういうわけじゃなく、「なんで?」と思う場面も多い。だけど実はそれがとても映画的な表現に繋がっているんですな。

例えば、途中でニーマンがコンクールの合間にドラムの主奏者の楽譜を任された時に、椅子の上に置いたはずの楽譜が無くなってしまうというハプニングが起きる。その後、主奏者がフレッチャーにすぐ呼び出されてニーマンが代わりに叩くという流れがある。ここで楽譜を持っていったのは誰なのか?ニーマンは「清掃員かも」と言うが、コンサートホールの清掃員が、そばに人がいるにも関わらず、椅子の上に置かれた楽譜をあの短時間で勝手に持っていくなんて事が有り得るだろうか?と思ってしまう。つまり、僕はこれすらフレッチャーが仕込んだ事なのではないかと思ってしまうのだ。主奏者の疾病も知っていたし、ニーマンが努力を積んでいることも知っているフレッチャーが、ニーマンを一発本番で試す為に仕掛けた事なんじゃないかと思えてしまう。そうでもないと、こんな偶然がこんなにも完成度の高い映画で許されるワケがないとも思ってしまう。「いや、それはさすがにありえないでしょwww」と言われるかもしれないが、じゃあ椅子やシンバルを投げるのは?ビンタでリズムを覚えさせるのは?・・・この二人は常に僕らの理解の先にいるんだ。

つまり、これの何が映画的かって言うと、観客に想像の余地を与える、説明しないっていうテクニックなんですよね。しかもこんな常人の理解の範囲外で進んでいくことなら尚更、言葉とかそういうので説明できちゃうモノっていうのは逆に説得力がなくなっちゃうんですよ。そういう意味でも、どこまでも狂人の過激さを表す映画として最高だなって思いましたよね。

『セッション』=ジャズの世界な訳が無い

この映画の公開当時、評価が賛否両論に分かれていたらしい。ジャズのイメージが誤解されるとか、ジャズってこんな厳しいものなんだっていう風に思われたらヤバイとジャズ業界の人が危惧していたらしい。この映画がアカデミー賞受賞したりと、話題になっていたから余計にそういう思いがあったんだろう。

でも僕から言わせてみたら、そんなのこの映画をちゃんと見てれば思うわけがないって話なのですよ。どう観たってこの映画の主人公の二人が誰の目から観ても狂ってる、狂人だっていうのは明らかだから。

確かに、ジャズという業界は僕ら一般人からしたら縁遠いモノではあるものの、この映画内ではちゃんとこの二人以外のジャズ奏者、ジャズの楽しみ方というモノも出てきている。つまり、ジャズ業界の中でもこの二人は浮いている、普通とは違うという事を表している事に気づければ、そんな誤解を生むこともないわけだ。つまり、この映画を見て「ジャズの世界ってこんなに厳しいものなんだ~」って的外れな感想を抱くのは、受け手の問題でしかないので、この映画にそんな罪はないと言い切れると、僕は思うんだけどね。

文末(あとがき)

本当に何度見ても飽きないし、感動する映画。この映画で今年観た映画を100本達成しました!

本当は『竜とそばかすの姫』が良かったんだけど、連休中のアニメ映画はお子さんが多いのでね・・・我慢です。


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