物語法のパラドックス

記憶の方法の1つの物語法を知っている者に告ぐ。
この世には物語性が存在しないことなんてありますか?

記憶術には物語法というものがある。
その方法は簡単で、覚えたい事柄で何か物語を作るというもの。
具体的にはリンゴ、バナナ、ミカン、メロン、スイカ、パイナップル、ブドウというものが存在していたら、「リンゴがミカンにバナナを一本与えて、仲間になってもらった。続いてリンゴはスイカにメロンを食わせて、ミカンとともにスイカにも仲間になってもらった。そしてパイナップル島についてパイナップルを退治し、ブドウを謝罪としてもらった」というのが、物語法の例です。

この方法の例でいえば、物語性を使って知識をつなげて覚えやすくしようというものだと思われる。
では、ここでなぜ物語性は覚えやすいのか?という問題が発生する。
が、ボブの今回のこのnoteではそんなことを言いたいんじゃない。
物語性を帯びたものは「とりあえず」覚えやすい!として脳死で受け入れる!
受け入れた先に存在しているのが今回の話。

そう考えてみてほしい。
物語性をどこに存在し、どこに存在しないのか?
みんなこう思うだろう。
そんなの簡単、物語性は絵本だったり自分の中で物語を作ったりしたときに存在している。
そして単なる知識や単語の羅列には物語性は存在していない。

そんなあなたに言いたい!
それは本当ですか??と。

よく考えてほしい。
人間の思考は物語性を帯びていないかい?
人間は何も物語性を用いないでランダムに思考しているのかい?
そして人間は日常という物語の中に存在していないかい?

そうつまりボブは言いたいことわかるかい?
それは人間の思考や日常にはほぼ必ず物語性が存在している

じゃあなぜあなたはインプットするとき、その物語性を帯びていないのか?
まさにそれがこの題名通りのパラドックス。

つまり
「人間はインプットする際に常に物語性は存在しているのに、なぜかインプットする際にその物語性が反映されない」
この部分が物語法のパラドックスと考えている。

さてその常に存在するはずの物語性をどうやったら使えるのか?
その点はこのnoteを書いている時点のボブもわからない
だけれども、この物語法のパラドックスが解けて、上手く使える状態になることはもしかしたら、子どもの記憶力のよさや自閉症の人の異常な記憶力のよさがわかる可能性がある。

子どもの方は、すべての自己の状況を物語チックに捉えることで記憶力をよくしているのかもしれない。
自閉症の人は、特殊な物語性を持つことで、サヴァン症候群のような人たちが出やすい関係にあるのかもしれない。
といった具合で色々考えられる気がします。

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