弟の泰山木
大学卒業後は、世の流れのまま、とりあえず会社員になってみた。ところが、上司たちのようにがむしゃらに働く企業戦士には、どうも私は向いていないと気付いた。というよりむしろ、そうはなりたくないと思った。自社の商品を他社より多く売ることに、全く情熱を注げなかった。
そこで、貯金と相談しながら旅行や留学、大学院、転職、寿退社等々、妥当な逃げ道を検討した結果、友だちの勧めもあって看護学校に入学した。モラトリアムのつもりでもあったが、看護の勉強は意外と興味深く、三年間の寮生活もあっという間に過ぎた。とんとん拍子に、二十九歳で看護師免許を得て鹿児島から上京し、それから十有余年が経った。
うまくいかず落ち込んだり、やってられないと憤ることはあっても、看護師を辞めたいとまで考えたことはない。仕事だけではなく、趣味も充実し、友人にも恵まれている。あいにく結婚には適性がないようだが、おそらくだからこそ、それなりに幸せに暮らしている。そんな私が鹿児島に帰省するのは、毎年六月頃だ。航空券が安い時期であり、弟の命日が六月にあるからだ。
鹿児島空港から実家への道中、レンタカーで加治木町という町を通る。加治木町には私を含め、姉と弟も同じ高校に別々の時期だが通学していた。部活帰りの空腹を、銘菓加治木饅頭でよく満たしたものだ。モチモチの酒蒸しの皮に小豆餡が入った大ぶりの平たい饅頭で、蒸し器の湯気が上がる時間帯には、辺りに地酒のふくよかな香りが漂うので買わずにはいられなくなる。ガソリンスタンドのレジ横で販売している店舗や県道沿いの峠茶屋にあるタイプ、街中の老舗など様々だ。餡まんとは似て非なるもので、肉まんやハンバーガーよりやや手頃な値段。鹿児島県にコンビニがまだ今ほど普及する前の、買い食いの定番の一つだった。
そんな加治木町の県道沿いに、加治木饅頭も販売しているガソリンスタンドがある。あいにく、タイミングが合わず、そこではまだ饅頭を買ったことはないのだが、店舗の向かいに泰山木の巨樹があって、帰省時の車窓からいつの間にかその開花を見守るようになった。その泰山木の開花時期と弟の命日が、同じ頃なのだ。
県道脇にその木はあるので、私は信号待ちの車中からいつも眺めている。樹高十メートルは優にあるものの、他にこれといった特徴もなく、葉や樹形だけでは何の木なのか分かりにくい地味な木だ。ところが梅雨の頃、ムッとする高湿度の中、真っ白でお椀状の肉厚の花びらが、両手いっぱいに大きく開く。ふんわり甘く、朴の木よりは爽やかな、いつまでも嗅いでいたくなる香りがしたら、見上げるとそこにある。わざわざ見上げないとその存在に気が付かない、けれど見上げた人だけが楽しめる、泰山木はそういう木だ。
以前は、弟と母とで「そろそろ咲くかな」と見に行っていたようだ。弟が亡くなってからは、帰省時にその道を通ることが多い私が観察役を引き継ぎ、「咲いていたよ」「今年はまだつぼみだった」等と、母に報告している。母はどう思っているか知らないが、私はそれを私の役割だと感じている。
弟が小学生のとき、国語の教科書に泰山木を題材にした話が載っていたそうで、どんな花なのかを母に尋ねたのが事の発端だという。母は当時、日中の仕事の他に新聞配達もして、家計を支えてくれていた。先述の木とは別に、配達先の近所に泰山木を見つけ、ときに弟も配達を手伝いながら、二人で早朝の観察を楽しんでいたそうだ。弟が運転免許を得てからは、加治木町の木も観察対象に加わったらしい。私は大人になるまで、母と弟の間にそんなエピソードがあることを知らなかった。いや、聞いたような気もするが、少なくとも記憶にはあまり残っていなかった。若い頃は自分のことだけに精一杯で、親や兄弟がどんなことを考えているのかなんて、興味すら持っていなかった。
弟は自ら命を絶ち、今年で十三回忌を迎えた。私は弟の死後に上京しており、あの頃よりは酸いも甘いも少しは噛み分けられるようになったはずだ。看護師だから、大人だから、ものわかり良く、すっかり弟の死を受け入れ、気持ちの整理はついているつもりでいた。しかし、「なぜ弟は死んでしまったのか」「本当に自死だったのか」という疑問はずっと抱えたままで、何かの拍子に頭に浮かんでしまうことがあった。亡くなって十年以上が経っても、東京にいても、新宿御苑や個人の庭でも、泰山木を見るたびに溜息と涙が出た。「日頃からもっとちゃんと弟と話をしていれば、死なせずに済んだかもしれない・・・」と、仮定法過去完了の言葉が出るばかりだった。
歯並びの良い満面の笑みをした弟の遺影に問うても、弟が好きだった場所に行ってみても、私の「なぜ?」に弟は返事をしてくれない。もう遅いのだ。しかし、問わずにはいられなかった。化けて出て欲しいくらいだった。たとえ化けて出てくれたとしても、弟の話を落ち着いて聞ける自信はないけれど。叶うならば、死ぬ前の弟に「死なないで」と言いたかった。何としても、死を引き留めたかった。突き詰めると実は、弟の気持ちを知りたいのではなく、死んで欲しくなかったという私の希望を訴えたいのだ。
さて、これまでは気にも留めていなかったが、今年は「十三回忌」と聞いて、件の国語の教科書の原文をどうしても読みたくなった。母はストーリーもタイトルも覚えていない。弟は私より四つ年下だが、私の頃には扱われていなかった。また、調べたところ、現在の教科書にも掲載はなかった。読みたいという執念で、私はインターネット検索を進め、個人のブログから出版社のアーカイブ、国立国会図書館の蔵書目録へ辿り着いた。そして、ついに上野にある図書館で閲覧できることがわかった。
それは、小学五年生の教科書で一時期だけ扱われていた『さよならの学校』(今江祥智・著)という童話であった。孫への誕生日プレゼントを毎年、庭の泰山木の根元に置くことにしていた祖父が、「来年はあの木をプレゼントしたい」と言って息を引き取る。泰山木が、祖父の死を通して、生きる意味を教えてくれる。「自分も懸命に生きよう」と、そう主人公が読み取る場面があり、私ははっとした。
弟が二十代の若さで自死を選んだことを、私はずっと惜しんでばかりいた。「事件に巻き込まれたに違いない」とか、「拉致されたのではないか」、または「どこか別の土地で、違う名前で暮らしているのではないか。そういう形ででも生きていて欲しい」と、自死だけではなく、死そのものをも受け入れられない時期もあった。一方、介護していた祖母が亡くなったり、弟が就職した後の出来事だったので、バーンアウトや抑うつ状態があったかもしれないということも否定できなかった。当時看護学生だった私は、そういった弟の兆候を見逃していたかもしれない自分の不甲斐なさや、無力さを責めたりもした。可能性や憶測は事後なら幾らでも浮かぶのに、弟が死ぬ前には何も気付かず、何もしなかった自分が歯がゆかった。きっと、私の両親や兄姉はもちろん、弟の友人たちも同様に、自分や誰かを責め続け、今も苦しんでいるかもしれない。誰かや何かのせいにしなければ、受け入れがたい出来事だった。死を選んだ当人の言い分もあるだろうが、遺族だって結構しんどいものだということは、当事者になって初めて分かった。やるせない気持ちと自他に対する憤りを、ずっと抱え続けて暮らしてきた。
しかし、仮に自殺の原因が分かったとしても、弟はもう戻ってこない。弟は短いながらも、弟なりに懸命に生きてきたのだ。そして、理由はどうであれ、死ぬという結論に達してしまったのだ。飽き性で、いつもテゲテゲ(鹿児島弁で「適当な」の意)の姉や私と違って、兄や弟は文句も言わず、何ごとも根気よく続けるタイプだった。そんな弟が選んだ結論が自殺であったのなら、もうそのまま受けとめてあげるのが、むしろ私自身のためなのかもしれない。『さよならの学校』を読んで、そういう考え方に変わった。「生きていれば、これから楽しいこともあったかもしれないのに」と、弟のことを思って死んで欲しくなかったつもりだった。ところが実は、弟のためにというよりも、「自殺で家族を亡くすのは、こんなにもショックが大きい」という自分の気持ちの方が、段々と強くなっていたのかもしれない。
当時よく「弟さんの分も頑張ってね」と、励ましの言葉を頂くことがあった。もちろん、単なる弔慰と分かってはいるのだが、どうしても私には言葉尻が気になり、素直に受け入れられない言葉だった。なぜなら、弟がどんな人生を送りたかったか、送り得たかは、私には見当もつかないからだ。意固地になって、「弟の分までは生きられません」と、心の中で言い返していた。
これからは、「こんなとき、弟だったら何と言うかな、どちらを選ぶかな」とたまには想像しながら、私は自分の人生を自分らしく懸命に生きていくつもりだ。それが、「弟の分も生きる」ということだと解釈した。そして、楽しむことも忘れずに、あの世で弟が早世したことをちょっとでも後悔してくれたら良いなと思う。
後日、『さよならの学校』のストーリーを、母に認めた。電話口で「良い話だね」と母が言葉少なく言ったあと、「じゃっど、そげな話じゃったが」と隣で父が言うではないか。なんと、かつて父親参観の折、ちょうどその教材を取りあげていたのを、おぼろげに覚えていたそうだ。まさか父が知っていたとは。さらに、父が授業参観になど行ってくれていたことも信じられなかった。十代の頃にフェミニストにかぶれ、長い反抗期を過ごした私にとって、コテコテの薩摩隼人で過干渉の父は、恰好の攻撃対象だった。弟のことを躍起になって探っていたら、思いがけず親の温かみに触れ、張りつめていた力が抜けた。親の気持ちを何にも知らず、それゆえ勝手にずっと気が張っていたことに、やっと気付いた。親になっていない私には、だいぶ時間がかかってしまった。
弟が死んだのは六月の下旬だった。死ぬ前に、弟はあの加治木町の泰山木の花を見ただろうか。十三回忌を過ぎてやっと、これまでとは違った気持ちで泰山木を眺められるようになった。