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たべられたい

美しい生き物が1つの命を食べる瞬間を見た。しなやかで力強い身体で小さく温かい生き物を締め付ける。息の根が止まったことを確認すると大きな口で小さく儚い命身体をゆっくりと奥へ奥へと押し込んでゆく。「可愛いでしょう?」そう言って見つめるお兄さんの瞳は飲み込む度に不思議なウェーブを描いて輝く鱗みたい。"死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ"最近、読んだ本の1行を思い出す。

去年の10月ごろ、私は死んだ犬の骨を食べた。綺麗な喉仏を削って、毎日ココアに骨粉を混ぜて飲んでいた。プカプカと浮かぶ骨粉をみながらこんなことしてなんの意味があるのだろうか、と考える時もあったが私はその行為をやめなかった。犬の死を受け入れるためにどうすればいいのだろう?私はずっとずっと考えていた。その結果、食べるという答えに至った。理由は2つ、食べるという行為は生きるということでもあり、死を認めるという行為でもあるということだから。もう1つは好きという感情と食べたいという感情はとても似ているから。彼女の美しい喉仏を見た瞬間、私は心から食べたいと思った。可愛い花を見た瞬間、美しい絵を見た瞬間、とてつもなく好きな人と出会った瞬間、私の心の中で"食べたい"と叫ぶ。その欲望に純粋に従った結果、食べる(体内に入れる)という行為に及んだ。彼女が私の中にいる、そう思うことで私はとても安心できた。たとえそれが間違っている行為だとしても。

喉の奥に消えた小さい生き物の姿を見ながら、私が死んだら誰か私を食べてくれるだろうか?なんてこと考えた。禿鷲や野良犬、虫たちが私の身体を食べてくれたらどんなに幸せだろう。大好きな人が私の骨を集めて食べてくれたらどんなに幸せだろうか。
「私も綺麗に食べられたい」
そう呟くとお兄さんは微笑みをうかべたままゆっくりとうなづいてくれた。

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