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普通の人のための世界で生きる、普通じゃない人たち

※この記事は映画のネタバレを含みます

私たちが所属している社会や世間というものは、多数派を基準として作られたものです。

そしてその多数派の中に入れた人を「普通の人」と呼び、多数派の中に入れなかった人を「普通じゃない人」と呼びます。
例えばLGBTQ+、障害を抱えた人たち、人種や国籍的に少数派の人たちなどです。

まだまだ「普通じゃない人」への偏見や差別はなくなってはいませんが、それでも昔よりはずっと「少数派への差別はやめよう」という意識が広まってきていると思います。

しかしそれは「普通」に苦しめられた人達がいたからこそではないでしょうか。

そんな「普通じゃない人たちの苦悩」を描いたのが、トラヴィス・ファイン監督作の「チョコレートドーナツ」です。

事実を基にした「普通じゃない人たち」の物語

この映画は実際にあった出来事を基にして制作された映画です。
詳しくはこちらをご覧ください。(Wikipediaに飛びます)

物語は、歌手になる夢を秘めながらバーで働く同性愛者の男性ルディと、同じく同性愛者で検察官のポールが、ダウン症の少年マルコを引き取ることころから動き始めます。

マルコの母は薬物依存症で、映画が始まって早々に逮捕されてしまいます。
母を失ったマルコは養護施設に連れていかれるのですが、彼は施設を抜け出して自分がもともと住んでいたアパートに戻ります。
その同じアパートに住んでいたのがルディでした。

ルディは一人ぼっちになってしまったマルコを放っておけず、共に暮らすことを決心します。
しかし決心したといっても、法律というものが存在しますのでそう簡単にはいきません。

そこでルディが頼ったのは、自分の働くバーの客で法律に精通した検察官のポールです。

ポールの助けもあって、法的に一緒に暮らす権利を得たルディとマルコ。
さらに、ルディに恋心を抱いていたポールもそこに加わります。
かくして同性愛者のカップルとダウン症の子供という一風変わった家族が誕生します。

普通じゃないことを隠さない辛さ・隠す辛さ

ルディとポールはマルコを大切に育てます。
マルコのために学校を見つけて、一緒に宿題もして、寝る前にはお話の読み聞かせもしてあげます。

不幸な境遇にあったマルコでしたが、彼は暖かく安心できる環境での暮らしを手に入れました。
ルディとポールの下でなら、きっとマルコは愛情に満ちた優しい青年に育つでしょう。
そう思えるほどに3人の生活は穏やかで幸せに見えました。

そんなある日、ポールは上司であるウィルソンからパーティに招待されました。
ウィルソンは「妻が会いたがっているから、パーティにはルディとマルコも連れてきて欲しい」とポールに言います。
ポールはその提案に気乗りしなかったのですが、上司の誘いとあって断ることができませんでした。

そして迎えた当日ですが、ウィルソンの奥さんは感じが良い人物でしたし、マルコもディスコダンスを披露して会場の人気を博したりと、何事もなくパーティーは終わるかと思われました。

しかし、ルディとポールのふとした瞬間の恋人同士としての振る舞いを、ウィルソンは目撃してしまいます。
そしてそのことが、3人の生活に大きな影を落とすこととなりました。

ルディはゲイバーで働くダンサーとして、同性愛者であることを隠さない生き方をしていますが、ポールはそうではありません。
自分が同性愛者であることを隠して働き、ともに暮らすルディとマルコについても「”いとこ”とその子ども」だと周囲に説明していました。

ウィルソンはポールのことを信頼していましたが、それは「普通の人」であるポールのことを信頼していたのです。

どれだけポールが有能だったとしても、同性愛者であるとなれば話は別。
自分たちを欺いて一緒に仕事をしていた人間をウィルソンは許しません。
残念ですが彼は、この時代の多くの人と同様に同性愛に寛容ではなかったのです。

ウィルソンがルディとポールの関係を嗅ぎまわったのかは明確な描写がないので定かではありません。
しかしポールがいつものように出勤すると、職場には彼が同性愛者であることが知れ渡っていました。

そして秘密を暴かれたポールは、同僚たちの冷ややかな視線を浴びながら仕事をクビになります。

2020年代を生きる人間からしてみれば「同性愛者だと発覚したぐらいでそんな冷たくする?ちょっと極端じゃない?」と思うかもしれません。
しかしこの映画の舞台となったのは70~80年代です。
今よりもはるかに同性愛者への風当たりが強く、好奇と侮蔑の目に晒されていました。
なので、この態度の急変は当時としてはあり得る事なのでしょう。

ポールは仕事を失ってしまいましたが、不幸はまだ続きます。

実はルディとポールはマルコの保護者としての権利を手に入れる時、お互いの関係、つまり恋人同士であることを隠していました。
上でも少し触れましたが、お互いを「いとこ」であると偽っていたのです。

なので一度疑われてしまえば、嘘はあっという間にばれ、3人の生活は破局を迎えてしまいます。

話は少し脱線しますが「いとこであると偽ったのは問題だろう」という意見もあると思います。

偽って証言するのが問題なのはその通りでしょうが、そもそも「なぜルディとポールはお互いの関係を偽らざるを得なかったか」ということも、この映画を語るうえで重要な点だと思います。

なぜルディとポールはお互いに恋人同士であると正直に言えなかったか。
それは、もし正直に言えばマルコの養育権が遠のくからです。

ではなぜ、同性愛者であることを告白すればマルコの養育権を得るのが難しくなるのか。
そこに、ルディたちの苦しみや生きづらさがあるのだと思います。

おそらく人生のあらゆる場面で偏見や嘲笑を浴び続けてきたのでしょう。
自分を隠さない生き方を選んだルディは特にです。

普通じゃない人間に対して、世間はどれだけ冷たいか」というのを、嫌というほど思い知っていたのに違いありません。
その社会に対する不信感のようなものが、2人にお互いの関係を偽らせてしまったのではないでしょうか。

普通じゃない人間に親の資格はないのか

ルディたちはマルコと再び一緒に暮らすため、闘うことを決心します。

自分たちが養育者に相応しいことを示すため、マルコの養育権を求める裁判に出廷しました。

ルディたちが裁判で対峙するのはランバート検事です。

この裁判は、本来ならマルコの将来を案じて行われるべき裁判のはずです。
しかしランバート検事は「この2人に育てられることがマルコにとって良いことなのか」には興味がなさそうです。
彼が関心を持つのは「同性愛者に子供を育てる権利を与えないこと」の一点だったように、私には思えました。

ランバート検事の同性愛者を軽視した言動や人を食ったような態度は「同性愛者が養育権を求めるなんて馬鹿馬鹿しい」とでも言わんばかりです。

もしもルディとポールに性犯罪歴や麻薬使用の疑いがあれば、ランバート検事の懸念も理解はできます。

しかし、ルディもポールも「性嗜好が多数派でないだけ」です。
2人にはお互いの関係を偽ったという負い目がありますが、それにしてもランバートの執拗で相手を見下した態度は目に余るものがありました。

私がこの裁判でさらに気になったのは、ルディやポールを指すときに使われる主語が「ゲイ」や「同性愛者」であることです。
この裁判を通して、ルディやポールの人柄や信条といったものが全然見えてこないんです。

ランバートの口から出てくるのは「ゲイだから」「同性愛者ならどうせ」みたいな決めつけの言葉ばっかりなんですよ。

この裁判のシーンからは「少数派のレッテル」がいかに強力で、レッテルを張られた人間を卑小な存在にしてしまうのかがよくわかります。
そしてそれは、ルディたちがいつも感じてきたことではないでしょうか。

法廷でルディが発した「普通じゃないと親になってはいけないのか」という言葉は、まるで長年の苦しみが爆発したかのようでした。

少数派ゆえの様々な侮辱に耐えてきたルディたちですが、マルコの人生がかかっている今回の裁判ばかりは屈するわけにいきません。

このルディたちの孤軍奮闘の戦いが報われるのかどうかは、ぜひ映画本編で見届けていただきたいです。

「普通じゃない」を受け入れるのは難しけども

今は本当に「色んな生き方を認めようよ」という意識の強い世の中だと思います。
下手に排他的な発言をすれば、SNS等で袋叩きにあってしまいます。(それはそれで別の問題があるのかもしれませんが...)

でもそれは「普通じゃない」という理由で後ろ指をさされ、責められてきたルディたちのような人がいたからこそだと思います。

私はどちらかというと「普通じゃない」側であることが多い人生を送っていますが、それでも時には別タイプの「普通じゃない人」を傷つけることもあると思います。というかあったかもしれません。

私の中にも、確実に無意識な差別感情は存在しています。
むしろ差別感情のない人なんているのでしょうか?
仙人でもない限り、「自分にとっての普通」に当てはまらない人を排除しようとする感情の動きはゼロにならないのかもしれません。

それでも、普通じゃない人たちにもそれぞれの苦しみがあり、愛する人がいるということを知れば、少しは差別感情も弱まるかもしれません。

とは言っても、なかなか他人の人生についてじっくりと知る機会なんてあまりないですよね。

しかし「当事者の思いに寄り添い、丁寧に描いた」本作のような作品を見れば、別の人生を知ることができるかもしれません。
「自分と違う人生」に触れられるのも物語の魅力ですよね。

「普通」という壁を前に、精一杯自分たちの権利を訴えるルディたち。
その姿はきっと、映画を見た人に「普通への疑い」と「普通じゃない人への共感」を呼び起こすことでしょう。

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