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私たちはもっと自分の弱さをさらけ出すべきだ

※映画のネタバレを含みます。

「弱さを見せる」って難しいことだと思います。
私は「できないこと」や「難しいと感じること」に直面した時、反射的に大丈夫な振りをしてしまいます。

動物的な本能が弱さを見せることに拒否反応を示しているのかもしれないし、競争社会において「弱い人間」と評価されることを避けようという判断の結果なのかもしれません。

とにかく「強い人間」ではなくても「普通の人間」ではありたい、という思いが私にはあります。

しかし、弱さを隠して生きていくということは途方もない生きづらさを自身に課してしまうのではないでしょうか。

今回紹介する映画の主人公も、最初は弱さを隠し「普通の人間」であろうとしていました。

そんな主人公が、弱さを隠し通すことの無謀さを痛感し、周囲からの助けを受け入れるようになるまでを描いたのが「僕と頭の中の落書きたち」です。

ある日「弱さ」が増えた

この映画の主人公はアダムという高校生。舞台はアメリカです。
彼はある時から幻聴や幻覚に悩まされます。
この時は彼も彼の母親のベスも気づいていませんでしたが、それらは彼の抱えていた「統合失調症」の症状でした。

アダムの悩みの種は幻覚と幻聴だけではありません。

アダムの実の父親が家を出て、母親が新しいパートナー(ポール)を家に迎え入れたのです。
しかもポールとはウマが合わず、アダムにとってストレスフルな生活が続きます。

しかしアダムには心の支えとなる夢がありました。
それは、料理学校に通い料理人になることです。

料理をする時間はアダムにとって何よりの癒しであり、不思議とこの時間には幻覚も幻聴も現れません。

料理学校に入るまでは今の状況をなんとかやり過ごそうとしていたアダムでしたが、化学の授業の実験中に事件が起こります。

授業中、強力な幻覚や幻聴がアダムを襲い、彼は薬品の入ったビーカーを友人の手に落としてしまいました。

悲鳴を上げる友人の姿に、アダムの症状はますます強くなります。
そして、アダムはパニックに陥り警備員に取り押さえられました。

アダムとベス、そしてポールは、アダムが統合失調症であったことをこの時初めて知ります。

そして、大事には至らなかったものの友人にやけどを負わせてしまったアダムは、学校をやめることを余儀なくされます。

アダムは「普通の高校生」ではいられなくなったのですが、彼ができなくなったのは普通の高校生活だけではありません。

アダムを恐れたポールは、包丁を含む刃物類をアダムから隠して遠ざけました。

刃物は料理人にとって欠かせない道具。
これをなくしたことで、アダムは何より愛していた「料理」さえも満足にできなくなりました。

今までの生活が一変。
それまで「普通に」できていたことができなくなり、新しい「弱さ」がアダムには増えたのです。

様々な「落書き」たちとどう付き合うか

タイトルにもなっている「落書き」ですが、この映画において重要な「象徴」の役割を持っています。

まず一つが「アダムの頭に次々と浮かぶ幻聴」を指しています。

幻聴というのは、統合失調症においてよくみられる症状です。
「お前は役立たずだ」とか「みんなお前のことを見下している」といった攻撃的なものもあれば、もっと柔らかいユニークな幻聴もあるそうです。

とにかく、この「幻聴」がタイトルやアダムの言う「落書き」の一つ。

そしてもう一つが「学校のトイレに書かれた落書き」のことで、つまり本物の落書きです。

アダムは校内のトイレで用を足しているとき、ふと壁に書かれた落書きを見つけます。
そこに書いてあった言葉は「イエス(神)は万人を愛する、ただし条件付きで」という辛辣な皮肉。

自分を「普通じゃない」と落ち込んでいたアダムは、この落書きをみて苦い顔をします。

「神は普通じゃない自分を愛するだろうか?いやきっとそうではないだろう」
「この落書きこそが世の中の本音なんだ。誰も自分を受け入れてはくれない」
彼は落書きを見て、そんなことを思ったのかもしれません。

このトイレの落書きのような「無責任だけど世の中に漂う声」のようなものが、二つ目の「落書き」です。

この「落書き」たちとどう付き合っていくかというのは、本作品の大きなポイントになっています。

これは、現実の私たちにも当てはまりそうじゃありませんか?

例えば、ネットの掲示板やSNSの一部にはトイレの落書き並みの「無責任さ」や「辛辣さ」があります。

アダムの幻聴ほどはっきりしたものではなくても
「仕事で失敗してしまった。きっと私は役立たずと思われている」
「既読が付いているのに返信が返ってこない。嫌われている」
などの頭の中の声(落書き)は、少なからず私たちの行動に影響を与えてきます。

これらの「落書き」に振り回されてしまうと、私たちは大切な現実を損なってしまいます。

アダムも、落書きの声を信じ込んで手痛い失敗をしてしまうことになりました。

落書きに振り回されないために、アダムが見つけた答え

アダムは失敗を経て、落書きとうまく付き合う術を模索します。

そして彼が見つけた答えは「身近な大切な人たちの声に耳を貸すこと」です。

「自分を知っていて、自分のために心を痛めてくれる人たちの声を受け入れる。そして彼らの助けを借りる」
それがアダムの見つけた答えでした。

なぜなら、彼らこそが「自分の現実」を教えてくれるからです。

「自分は無価値な人間か?」
「神は自分のことを愛するか?」
という問いを、トイレの落書きや幻聴ではなく「自分を知る人たち」にゆだねます。

そしてアダムは「自分を愛し、自分の不幸をわが身のこととしてくれる人がいる」「自分のために神に祈ってくれる人が存在する」という「現実」を受け入れ、落書きよりも優先する「指針」を手に入れたのです。

この「落書きよりも信じる指針」こそ、私たちを生きやすくしてくれるものではないでしょうか。

「弱さ」と「援助」を受け入れて前に進めたアダム

アダムは落書きに流されず、前に進むことができました。
彼がこのように成長できたのはなぜなのでしょうか?

その答えが「弱さやできないことを伝えること」だったと、私は思います。

「弱い」という言葉にはネガティブなイメージがついて回り、まるで「弱い=悪いこと」かのように感じてしまいがちです。

しかし「自分は弱いしできないこともあるから、助けて欲しい」ということをしっかり人に伝えることの大切さを、アダムは視聴者に教えてくれました。

アダムは映画の最後で勇気を出して病気による弱さ・困りごとをカミングアウトし、そうすることで彼の人生は好転し始めました。

例えばアダムの場合は「中途半端に開いているドアから幻聴が聞こえる」という症状の特徴があります。
アダムが弱さを伝えた後、周りの人は「中途半端に開いているドアは閉める」という配慮をするようになり、彼の幻聴による苦しみは軽減されました。

最初は弱さを隠し、愛する人たちに嘘をついたりその手を払いのけてきたアダムでした。
それはきっと「迷惑をかけないこと」「一人でなんでもできること」が求められる環境の中で育てば当たり前のように身につく態度なのでしょう。

カミングアウトする時と相手は十分選ぶ必要がありますが、現実の問題として人間は誰しも弱さやできないことがあり、しかもそれらは増え続けていきます。

加齢や病気、時代の変化によって「できていたこと」が「できなくなる」ことはいくらでもあります。
今回の映画のアダムもそうでした。

「生きづらさ」を作り出す「落書き」にあふれる世の中、誰しもが「弱さ」を見せやすく、そして他人の弱さを否定せずに助け合う世の中こそが、皆が能力を発揮できる「生きやすい世の中」なのではないか。

映画のラスト、晴れた顔つきで夢に向かうアダムを見てそんなことを思いました。

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