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良い評価を受ける事による弊害


何らかの活動をがむしゃらにした時、思わぬ所で想像以上の結果が出る事がある。


それは勿論本人にとって良いことではある物の、一方で実は長い目で見ると全体として良い方向とは逆向きへ作用する事もある。




ただやりたいからしていたことが褒められたり、何らかの成果が出たりして、そういった状況が定常的に続くうち、いつの間にか褒めてもらわなければ気が済まなくなる。


いつの間にか褒められ回数などの数値を目標に行動を量産する、という計画を立てだす。成果が出てこそ、と考え始める。



そうやって外的評価や褒められKPIを設定する内、選んでいる行動やコンテンツそのものは好きな事だったはずなのに、取り組むことが何故か億劫になり始めたりなんかする。


特にそれらの成果が収入源を始めとした生活基盤として機能範囲を大きくし始めた時、より発生しやすくなる気がする。



嘘みたいで、割と身近にあるこの目的と手段の混同現象。
これをwant to&have to のリバース現象と呼びます。(※呼びません)



ただ純粋にその行為そのものが好きだったところから、なまじ半端に反応があった事で逆にやらなきゃいけないと感じたり、人々の期待に応えなければならないなんて感じ始めちゃう。


何かを達成した事によって、新たに得た人間関係やお金などによる、ある種の居心地の良さが元々根底にあったはずの動機を忘れさせる。



ただこれを避けるために、評価や成果を目指すな、という話ではない。
いついかなる時も主軸や主体を自身側に置き続けられるかどうか、という話。



実際、外部も絡んだ成果評価にはドーパミンやら承認評価にはオキシトシンやらなんやらアレコレのホルモンが出る。
こやつらはどっちも別に悪者ではない。
使いようで良くも使えるし、悪くも働く。


ドーパミン過剰は行き過ぎた行動に走らせるし、
オキシトシン過剰は現状へ満足させて同じ場所に留まり続けさせちゃう。


ただその時々で、現在の自分に何が働いていて気分が良くなっているように感じている、という事実が自身を一つ上の階層から覗き続けられるようになると1つコントロール感が生まれる。


そして、発生した評価や成果を内的要因と外的要因両方がたまたま都合良く重なった、という事も併せて観察し、再現的に使ってみたい要素はピックアップしておけばいい。


で、また次の瞬間からは評価される前と同じように自身の内側の欲求主体で粛々と生きる。



自分自身を上から見下ろす自分を育てると共に、評価されようがされまいが蔑まれようがやってしまう行動パターンをクリアにし、そこに対して真っすぐ生きる。


おすすめです🕺



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