安楽死、尊厳死と死生観【考え方】

このnoteは個人的に考える安楽死と尊厳死についてを書きます。
今まで考えるだけで文に残してなかったので書いてみました。

とりあえず分類

①患者への致死薬投与(本人による安楽死の希望が明確)
本人の意思があり、インフォームドコンセントが成立するので医療的安楽死。

②患者への致死薬投与(本人が安楽死を希望していない、又は意思表示できない場合)
本人の意思がないので親族の同意があっても殺人。本人とのインフォームドコンセントが成立しないので反医療的安楽死。

③末期患者の延命装置除去(本人に意識があり同意した)
本人の意思でありインフォームドコンセントが成立するので医療的尊厳死。

④末期患者の延命装置除去(本人に意識がない、又は同意していない)
親族の同意のみで本人とのインフォームドコンセントが成立しないので反医療的尊厳死。

⑤末期患者への致死薬投与(本人に意識があり同意した)
本人の意思でありインフォームドコンセントが成立するので医療的安楽死。

⑥末期患者への致死薬投与(本人に意識がない、又は同意していない)
親族の同意のみで本人とのインフォームドコンセントが成立しないので反医療的安楽死。

自分で今考えれるパターンを医療的安楽死、反医療的安楽死、医療的尊厳死、反医療的尊厳死の4つに分類。患者以外への安楽死は医療ではないので今回は除外。また①②と⑤⑥で微妙に違うのは末期でない患者に安楽死という選択は少ないという推測によるもの。

分類してみて

分類してみて医療的だからいいとか、反医療的だからよくないとか、そこまでは考えれていないけど誰にでも訪れる死について考え続ける必要はある、自分の死についても家族の死についても。

自分の考える死

自分の死
認知症みたいに誰か他の人が関わらなければ普段の生活がままならない場合は安楽死。と考えてはいても実際認知症になったらそんなこと忘れてるだろうし、事前に取り決めていても納得できるかどうかはわからない。忘れてないときはすぐに安楽死できるようになっていることを願いたい。

家族の死
話したこともなければ積極的に話すつもりもない。大多数がこうであっていざその時がきたらもっと前から考えておけばよかったとなるだろう。

以前ニュースになった
小籔さん起用の「人生会議」ポスター、批判受け発送中止で、
批判に関しては同意できる部分もあるがポスターは当事者以外のためでありいわゆる人生会議の最後は結局死に方なので問題はなかったように思っていて、ようは普通に生きてて考えることがなさすぎるのだろうと。

一応まとめると

安楽死であろうと尊厳死であろうと事前に決めていれば事件にならないので自分でも家族のことでも当事者意識を持つ必要がある。医療者側も殺したくて処置してるわけではないだろうから… 医療者側の考えで処置して事件になったらそれは家族で決めておくべき責任を医療者側に押し付けてしまっているのではないかと考える。

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