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プレイヤーズヒストリー 松永翔編

松永には忘れられない言葉がある。 「人間だっていつかは死ぬんだよ。だから『今が一番大事』。毎日一生懸命悔いのないよう に生きなさい」
彼が 12 歳の時に亡くなった、父親からかけられた言葉だ。 当時はおぼろげにしか理解出来なかったが、30 歳になった現在、1 日 1 日を大事に、フッ トサル人生最高のコンディションでシーズンを戦っている。

【プロフィール】
松永 翔(まつなが しょう)
1992 年 3 月 19 日生、東京都調布市出身
2019 年、ボアルース長野トップチームに加入。
【所属チーム歴】
竹の子 SC
ヴェルディ SS 調布ジュニアユース 実践学園高校サッカー部 府中アスレティック FC サテライト 府中アスレティック FC バサジィ大分 ボルクバレット北九州

東京都調布市出身。3 人兄弟の末っ子で、幼稚園の時、兄 2 人がやっていたサッカーを当た り前のように始めた。入団したのは地元の竹の子 SC。しかし困ったことに「極度の人見知 りだし、サッカーって当たり前ですけど試合中、ボールを持ってるの 1 人じゃないですか。

そのボールを持ってる時間が恥ずかしくて持ちたくなかった」。致命的とも言える引っ込み 思案な性格に、発破をかけるのは母・良子さんの役割だった。「母親は体操でインターハイ に出るような選手だったので、いつも練習の帰り道にダメ出しされてましたね(笑)でもそ れがあったから続けられたのかもしれない」。
一方の父・隆さんは「楽しくやればいい」と、穏やかに息子の様子見ているような人だった。 所属チームの〝お父さんコーチ〟も務めていた。しかし当の本人松永は「自信がない。サッ カーが全然楽しくない」。そんな三男を見かねて買ってきてくれたのは、海外サッカーのド リブルテクニックが詰まったビデオだった。華麗な動きで相手を置き去りにするドリブル は、子どももプロ選手も夢中になる魅力あるテクニックだ。「これは面白い!」あっという 間にのめり込み、近くの公園でドリブルの練習をするようになった。父・隆さんも練習相手 になってくれた。サッカー経験がない父はすぐに突破できるようになったが、時々相手にな ってくれた兄には歯が立たず、泣きながら延々と練習を続けることも。
小学 2 年生で出場したとある日の試合。足が速かったこともあり、フォワードに抜擢され た。それまで点を取ったことはなかったがこの日だけは「お母さんから『とにかく点取りな さい。点取ったら、ポケモンの攻略本を買ってあげる』と釣られたんですよ(笑)その時に 初めてスイッチが入ったというか...」。子どものやる気スイッチは意外なところにあるもの だ。
練習を重ねたドリブルを使ってみると、どんどん相手を抜くことができた。その日だけで 3 ゴール!「それをきっかけに急に全部が変わりました。何とも言えない高揚感というか。サ ッカーが楽しくなりましたね」。

この日を境に内気だった松永がチームの主力選手になった。小学 6 年生時にはキャプテン を務め、世田谷区大会で優勝。「毎試合 3 点ぐらい取ってました、区のレベルの大会ですけ どね」。

竹の子 SC 時代(小学校 6 年時)

スピードとドリブル突破からのシュートを武器にめきめきと力をつけ、元日本代表木村和 司さんが主催するオーストラリア遠征のメンバーに選ばれ、初めての海外遠征を経験。 当時身長 130cm 台とひときわ小さかった松永が、170cm、180cm を越えるオーストラリア 選手と対戦し苦戦したことは想像に難くない。「僕、足はずっと速かったし、地域のトレセ ンには選ばれていたんですけど、海外選手にはスピードがまったく通用しなくて。いつも取 られないようなところにボール置いてても、足が長くて全部取られて、ショックというかす ごい経験でした」。

オーストラリア遠征にて

この頃、2002 日韓 W 杯の開催地として、日本中がサッカーに沸いていた。息子たちのため にと、父・隆さんは W 杯の観戦チケットを購入しようと必死だった。なんとか購入できた のは、準決勝・ブラジル対トルコの好カードを 2 枚。 「父もめちゃくちゃサッカー好きだったから絶対に観たかったと思うんですけど、兄(次男) と僕に見せてくれました。父は送迎係で試合中はスタジアムの外でずっと待っていてくれ たんです」。世界最高峰のドリブルや華麗なプレーを目に焼き付けた。
中学は、J リーグの名門・東京ヴェルディの下部組織「ヴェルディ SS 調布ジュニアユース」 に入団。1 つ上の学年に入りプレーするほど、その実力を買われるようになっていた。東京 都のトレセンメンバーにも選ばれるなど、全てが順調に思えた矢先の中学 1 年生の 6 月。 思いもよらない出来事が起きた。

ヴェルディ SS 調布ジュニアユース時

その日は父・隆さんの運転でヴェルディの練習に向かっていた。「甲州街道を走っている時、 突然父の様子がおかしくなって」。意識を失ってしまった父に気づいた松永はとっさにハン ドルを切り、正面のトラックにぶつかって車は止まった。隆さんは急性心筋梗塞だった。「泣 きながら隣りの車の人に頼んで救急車を呼んでもらいました」。そのまま帰らぬ人となった。 53 歳だった。
松永には忘れられない言葉がある。
小学 1 年生の頃、飼っていたハムスターが亡くなり、泣きじゃくっていた時に父親にかけ られた言葉である。

 父・隆さんと

「人間だっていつかは死ぬんだよ。こうやって家族で楽しく話していても、あす家族の誰か が死ぬことだってあるんだよ。だから『今が一番大事』。毎日一生懸命悔いのないように生 きなさい」
思い起こせば、父は生前、その言葉通り「今を大事に」毎日を生きていた。物静かな父だっ たが、松永が東京都トレセンに選ばれたのを周囲に嬉しそうに話していたことも後に聞い た。
父親が亡くなった後、1 ヶ月間はサッカーを休んだ。その後久々に練習に参加し帰宅すると 「楽しかった!」。母・良子さんはその言葉に救われたという。それからは良子さんが、父 親と母親の両方の役をこなすことになった。そんな母の様子を見ていた松永は、中学生の多 感な時期も、母に反抗することなく、過ごしたという。「好きな子が出来ても、母には言わ なかったですね。三男だったし、母からの愛が重くて(笑)」。
ヴェルディ時代は得意のドリブルを活かし、フォワードやサイドハーフとして活躍。 東京都大会 3 位に貢献した。「これまでスピードだけに頼っていたのが中学では通用しなく なったんですけど、ドリブルや、思い通りにボールを動かす技術という得意なことを磨きま した」。
しかし次の高校の選択がサッカー人生に大きな影響を与えることになる。

実践学園高校時代

高校は東京都の強豪・実践学園に進学。「ヴェルディの先輩たちは各高校で 1 年から試合に 出られていたので、当然、僕もレギュラーになれると思っていました」。しかし、実践学園 は「ロングボール主体で、ヘディングで跳ね返してとにかく身体を張って守るスタイルで、 今まで僕がやってきたものとギャップがありすぎて。」高校 1 年当時 160cm 程の細身だっ た松永は、レギュラーどころかベンチにも入れない日々が続いた。
「なんでなんだ?」悶々とした思いが募ったが、高校 1 年生の時から続けていた日課だけ は欠かさなかった。朝 4 時半に起床し、近くの公園でのドリブル練習だ。「出来る種類は多 くなかったですけど、とにかくドリブルや 1 対 1 では絶対に負けたくなかった」。特に足裏 でボールを止める技術はピカイチだった。ドリブルをしている時だけが、なんとか悔しさが 報われる、消化されるような気持ちになったという。「元々ドリブルが好きになったのも父 親がいつもつきっきりで練習に付き合ってくれたのもあってので。父親に何か否定された 記憶はなくていつも背中を押してもらっていた」。ただ試合に出るだけならもう少し上手く やれたかもしれない。しかし、高校のスタイルに合わせるのではなく、あえて自分の得意な ことを磨き続けた。それだけは譲れなかった。 「僕はサッカーというスポーツが好きになる前にドリブルという行為が好きだったのかも しれないです」。高校 3 年生最後の引退試合も、スタンドで迎えた。
「絶対に辞めたらもったいない」。高校の中には松永を評価してくれるコーチもいた。そん な後押しもあって、大学は指定校推薦で専修大学へ進学。日本トップの関東リーグ 3 連覇、 大学日本一になるほどの強豪だ。心機一転、サッカーを続けると思いきや...。「高校 3 年の 冬にサッカー部を引退してからの数ヶ月間、バイクの免許を取ったり友だちと遊んだり、初 めてサッカー以外のことができる楽しさと自由を覚えてしまって」。大学 1 年生時はサーク ルでサッカーをしていたものの、友だちと遊ぶ楽しさが上回っていた。しかしそんな生活も 1 年が経った頃、無性にボールが蹴りたくなったという。

たまたま初めて観戦に行ったのが F リーグの府中対町田の試合だった。「思っていたのと全 然違ったんです。フィジカルの強さ、熱量、迫力もすごくて。1 試合観ただけで一気にのめ り込みましたね。これが自分がやりたかったスポーツなんだって」。
決めたら行動に移すのに時間はかからなかった。すぐさま地元府中アスレティック FC のセ レクションを受け、サテライトチームに合格。大学に通いながら、チームにも所属した。当 時の監督が認めてくれたのは、幼い頃から磨いてきたドリブルの技術と 1 対 1 の強さだっ た。チームの先輩で当時の日本代表・完山徹一選手に「お前、いいな」と声をかけられたの も大きな自信になった。1 年前から時々トップチームの練習にも呼んでもらえるようになっ た。大学卒業のタイミングでトップチームに昇格し、F リーガーとなった。試合にはまった く出られなかったが、「高校の時のように『なんでなんだ?』という気持ちにはならなかっ たです。力が足りなかっただけなので」。

府中アスレティック FC時代

大卒 2 年目、F1・バサジィ大分からオファーが舞い込んだ。松永が持つポテンシャルを高 く評価してくれていた。大分は選手全員がプロ契約の F リーグでは数少ないチーム。出場 機会に飢えていた松永は「環境を変えたい、勝負したいな」と即決。しかしそれは、23 歳 にして初めて親元を離れることを意味していた。当時、2 人暮らしだった母を 1 人残してい くことになる。「母親が羽田空港まで送ってくれて、『ありがとう』と言って握手して別れま した」。涙が溢れるのを必死に隠す母親を背に「ちゃんと試合に出て活躍する姿を見せたい」 と誓った。
大分では初めての 1 人暮らし。練習コートと寮を行き来する毎日。練習、食事、洗濯...1 日 をすべて自分でコーディネート出来ることが楽しくて仕方なかった。F リーグでのデビュー
 
戦はアウェー湘南ベルマーレ戦。母・良子さんが見守る中、決勝点をアシストし勝利に導い た。「やっと!と思いました」。 この時はまだ、大怪我で長期離脱を余儀なくされるとは予想だにしていなかった。

バサジィ大分時代

せっかくレギュラーをつかんだ大分での 1 年目、シーズン途中に靱帯損傷で離脱。数ヶ月 のリハビリを経て復帰したものの「身体の筋肉バランスが悪いまま復帰してしまって、シー ズン最後までプレーはしたんですけど、左膝がずっと痛かったんです」。2 シーズン目の途 中でついに激痛で耐えられなくなり、再び離脱。左膝の膝蓋腱炎...元日本代表の内田篤人選 手も長年苦しんだ大怪我だった。すがる思いで九州中の病院を駆け回り、最新の注射などの 専門治療を受けた。しかし良くなるどころか日常生活もままならなくなっていく。「夜も眠 れなくて痛みで起きちゃって、トイレに行くのもやっとでした。メンタルやばかったです」。 一向に先が見えないどん底の中で出会ったのが、今の妻・杏奈さんだった。

 妻・杏奈さんと

「僕はもう狂ったようにリハビリしかしてなくて、他のものを何も受け付けなくて。そんな 時彼女は気晴らしにショッピングに連れ出してくれるんですけど、5 分も歩かないうちに痛 くて家に帰りたくなっちゃんですよね」。
杏奈さんは「『絶対治るからっ信じて』って言ってくれて、何の根拠もなかったと思うんで すけど(笑)絶対治ると思ってたらしくて、諦めなければ」。
そんな時、府中でチームメイトだった完山選手が、京都にあるトレーニングジムを紹介して くれた。怪我をしてからすでに 8 ヶ月が経っていた。「今までは病院でセカンドオピニオン を繰り返しても『元のように競技はもう出来ないかも』って言われてばかりだったんです。 だけど京都で初めて『絶対治るよ。絶対治るから安心して』って言ってもらえたんですよ」。

 完山徹一選手と京都のジムにて

フットサルの練習に比にならないぐらいきついトレーニングだったが、これまで 1 年以上 も苦しんだ左膝の痛みがみるみるうちに軽減した。大分という新天地は 2 年の在籍。その うち 1 年半をリハビリに費やしたが、師匠と仰ぐ完山選手、当時のチームメイトで現ボア ルースヘッドコーチの山蔦一弘さん、後に妻となる杏奈さん、そして母・良子さん...「引退 も考えましたけど、僕にはいつも支えてくれたり、励ましてくれる人が近くにいたんです。 奥さんには頭上がらないですね。あと母はきっと、選手としてよりも健康を取り戻してほし いと心配してくれてましたね。膝も良くなったしもうちょっと頑張ってみようと。何歳まで でもできることじゃない、限られた時間なので後悔する終わり方はしたくない」。
『今が一番大事』亡き父・隆さんの言葉を体現するように、現役続行を決意した。
その後、ボルクバレット北九州に移籍。カテゴリーは F1 から F2 に下がったが、「米村と一 緒に移籍したのが大きかった」。米村とはボアルース長野でも後にチームメイトとなる米村 尚也選手。その年、米村選手とともに全試合に出場、チームの得点王も分け合った。 「馬場監督に今までとは次元の違う指導をしてもらって。目から鱗というか、知らないこと をたくさん教えてもらいました」。これまでドリブル技術にとことんこだわり、売りしてい た松永が、馬場監督に出会い、初めて学んだのが守備だった。「地味だし苦手だったし嫌い だったんですけど、身体を張るディフェンスが好きになったり、得意なことに変わるきっか けでしたね。」。

ボルクバレット北九州時代

そして 2019 年、松永の選手キャリアは現在のボアルース長野へとたどり着く。「やっぱり 一番上のリーグに戻りたいというのがあって。長野が F1 昇格を決めたタイミングで、加入 することを決めました」。大分で挙げた結婚式の翌日には気ぜわしく長野に引っ越してきた。 「気持ち良いし景色もよい、住みやすそうだなと 2 人で気に入りました。冬だったので寒 かったですけど。ただ九州から来たので、僕短パン履いてて、周りからめっちゃジロジロ見 られました(笑)」。
これまで家族や多くの人の支えで選手人生を歩んできた松永にとって、長野で支えてくれ る人に加わったのは、〝近所のおばちゃんたち〟だ。 「知らない僕でも普通に挨拶してくれたり、親身になって支えてくれたり応援してくれて。 東京育ちの僕からしたらそういうのは馴染みがなかったので、すごいなと思いました」。

長野でも 1 年目から主力として出場し、昨シーズンの入れ替え戦で劇的残留を決めた試合 もコートに立っていた。今シーズンは長野に来て 4 年目。「ABEMA TV の解説の方が僕の ことを 30 歳のベテランと言っていてはっとしたんですけど、自分ではベテランとは思って なくて。まだまだ自分に必死というかまだまだ上手くなれると思ってます」。
 
8 月 27 日、古巣・ボルクバレット北九州戦で F リーグ通算 100 試合出場を達成。節目の試 合で松永のメモリアルゴールが決勝点となった。「母もすごく喜んでくれてた。小さな時は 当たり前のように一緒にいた親子が当然離れなきゃいけない時がきて、そういう中で元気 な姿や活躍を見せるのがきっと親孝行なんでしょうね。でも親孝行出来ているか分からな いっす(笑)」

観戦に訪れた母・良子さんと

30 歳になった今、松永が大切にしているのは父・隆さんに言われた『今が一番大事』とい う言葉だ。「未来でもなく過去でもなく、今が一番。父親と練習したドリブルは当時も今も すごく大事。父に『あのプレー良かったね』と褒めてもらったことが、楽しさの原点です」

ライター:武井優紀

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