はじめての多摩美

前回のnote更新からの出来事です。日記です。


はじめての多摩美

友人の手引もあって、文明の崩壊した自宅から距離を取ることができました。

やったこと自体は別段たいそうなことではないのですが、離れて初めて気づいた閉塞感からの開放、これから起こる未知の出来事への期待、それによる高揚感といったものが、ひさしぶりに身を伝い巡ったように思います。
大学へ入学して一人暮らしを始めたときにも似た感覚でした。

そんな感覚を思い起こしながら、多摩美術大学へ行ってきました。
私に美術系大学の存在を初めて教えてくれた方は多摩美術大学の方だったのですが、実を言うと多摩美術大学へ来るのは今回がはじめてでした。

はじめての多摩美術大学ですが、自然豊かで、来ただけで心と体の連動が自然と起こり、通い続けることでより調和のとれた自分になれるような場所でした。日頃から運動していてよかったと思うのも、ここ数年で多摩美に登ったときくらいだと思います。

美術大学ということで目に入るほとんどの方が美術に関する人生の山を登っていると思うと、自然と背筋が伸びるのでありました。


空相

キャンパス内の彫刻作品などはどれもよかったのですが、特に関根伸夫氏の「空相」は非常によかったです。あそこで昼寝をして寝起きはじめてで見るものが「空相」なら残りの一日はとても良い気分で過ごせるような、そんな作品でした。氏のように作品の上に乗ってみたいとも思いました。

※「空相」は上記リンクの展示ポスターに記載されている、ステンレス柱に自然石を組み合わせた作品のことです。


時間

私が大学を卒業してから子どものランドセルが学生カバンに変わるくらいには時間が経っているのですが、それでも大学へ行くと自分の大学時代を思い出しますし、大学はよいところだと感じました。それは私が恵まれた大学生活を送っていたことの現れでもあります。

それがわかるだけに万人にとっての「大学とはこういったもの」といった答えはないように思います。各々が各々の答えや推論や当たりをつけるなどして、あるいはつけずに、意識無意識問わず自分の肯定する過ごし方をする、それだけです。


美術大学に限らないことですが、入学したはよいものの自分の希望することと現実のギャップに苦しむ方も多いと聞きます。
日常に対する不満や、不安がそれなりの範囲で収まれば、それらをモチベーションに転化し、豊かな時間や体力、またそれに伴う可能性、可能性を担保にしてさまざまな機会にも恵まれます。大学生の多くがこのことに無自覚なまま4年間を過ごし、社会へ参加し(させられ)ていきます。

人(でかい主語)は無意識に所持して、無意識に取り扱っているものに関しては価値を低く見積もることが多いように思います。
後に手元にとどめておけばよかったと、あるいはもっとマシな交換レートでより価値あるものとして今の手元にあればと後悔する方も多いです。


就職して自分の過去現在未来のあらゆるものが評価され、所属企業や賃金といった形で現れる。現れるものが自分の情報の大部分を占めるようになるところでやっと、今まで無意識にあった自分固有のものへ意識が向くようになります。

それを踏まえた上で自らの望みを体現できるものが美術であり、美術を始めるのに最適なときが今であったというのが私でした。

始めるのが遅いことや始めてから短期間でここまできたみたいなことを誇るような見出しをよく見ますが、個人的に自分自身に関しては自分や他人、ひいては社会に対する無関心が招いたのが現在の体たらくなので、生涯時間に対する美術に関わった時間の少なさは「恥」というよりほかないと考えています。私にとっての美術や、美術に出会って以降の人生は過去の恥をよりマシな恥で上塗りすることであったりします。


まとめ

多摩美生をみて気を引き締めるとともに、彼らが私のようにならず美術の道を通して自らの望みを叶えることを心より願うばかりです。

はじめての多摩美術大学訪問はとてもよい経験となりました。

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