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試し読み 「クリティカル/スペキュラティヴ・デザインは、日本においていかにして可能なのか?」 座談会 vol.02 | 水野大二郎×太田知也×岡田栄造×長谷川愛×岩渕正樹

クリティカル・デザインとはなにか?:問いと物語を構築するためのデザイン理論入門』より、巻末に日本語版付録として所収した監訳者とゲストを交えた座談会を一部公開します。

vol.02となる本記事では、クリティカル/スペキュラティヴ・デザインの取り組みや問題意識をどのように人々と共有すればよいのかについて主に議論されます。本書でも重要視されている "デザインにおけるフィクション(虚構)"の話を引き継ぎながら話題に上げられるのは『シン・ゴジラ』や『ブラック・ミラー』といった昨今話題になった作品たち。いま、フィクションや思索(スペキュレーション)がもつ意味とは……?

本書の内容のおさらいをしたvol.01はこちら

(※noteへの転載に際し、太字による強調やリンクの付与、注釈の削除などをしています)

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議論の現場はどこにあるか

太田知也 ここまで展開されてきた大学の教育環境の話はもちろんなのですが、SD(スペキュラティヴ・デザイン)の社会的な受容史という意味では、ミュージアムにおける展覧会について振り返ってみてもよいと思います。マルパスをはじめこの言説内でよく言及される作品が出展されていたり、ダン&レイビーやその教え子たちが参加したりしている、次のような展覧会です。

1972年:
 「Italy: The New Domestic Landscape」(MoMA)
2003年:
 「Strangely Familiar: Design and Everyday Life」(Walker Art Center)
2008年:
 「Design and the Elastic Mind」(MoMA)
2010年:
 「EPSRC IMPACT! Exhibition」(RCA)
2013-14年:
 「うさぎスマッシュ:世界に触れるアートとデザイン」(東京都現代美術館)
2015-17年:
 「Hippie Modernism: The Struggle for Utopia」(Walker Ar tCenterほか)
2019年:
 「Home Futures」(the Design Museum)
 「Broken Nature」(TheXXII Triennale di Milano)

 欧米の展覧会を振り返ってみると、大学での取り組みに数年遅れて社会に言説を還元していく動きが見られるかと思います。代表的なのは、2008 年にMoMA(ニューヨーク近代美術館)のキュレーターであるパオラ・アントネッリが中心に手がけた「Design andthe Elastic Mind」でしょうか。先ほど長谷川さんが2007年のロンドンでデジタルが盛り上がりを見せていたとおっしゃっていましたが、これはその翌年、アメリカでインタラクションデザインとCD(クリティカル・デザイン)の作家が多く出展した展覧会です。続く「Impact!」展は、2000年代に生じたCDの変遷を記録するかのようなものであり、多様なテクノロジーが主題とされています。日本でも同様の共振は─結果的には、ですが─見られるのかもしれず、スプツニ子!さんが神戸芸術工科大学に着任した翌年、「うさぎスマッシュ」展が始まります。同展はCDが脚光を浴びた日本で最初期の事例だと思います。 あらためて考えてみたいのは、日本にCDやSDを根付かせる上でこうした展覧会を開いてみる価値はあるのかどうかということと、あるとしたらどんなかたちがありうるのかということです。言うまでもなく、展覧会は学生への教育のみならず市民教育や社会全体で関心を醸成することにつながります。

水野大二郎 しかしながら、これらはすべてホワイトキューブの中で行われていますよね。日本は美術館で多様な人々が集まり、議論できるところまで社会が成熟しているかどうかが怪しいので、別の場所で開催しないとまずい気もします。

長谷川愛 美術館に行くのは、結局もともと敏感な人たちだけなので、その人たちだけで議論していていいのかというホワイトキューブ批判は引き受けないといけないと思います。

太田 在野の自分から見れば、大学内でのCDのリベラルアーツ的な教育価値や批判的思考を持ち上げる一方で、ホワイトキューブが一蹴されるというのはあまりフェアとは思えません。もとより、CDやそれに類する問題提起型のデザインは「展示」を主たる発表形態にしてきた、という指摘もあるのです。加えて、CDのリベラルアーツ化をことさらに強調し過ぎれば、当初の批判精神を失って次なるデザイン思考的なツールとして受け入れられていくことにもなりえます。事実、その批判から出発したはずのHCI 領域に逆輸入されたかたちでのCD/ SDが、いまではワークショップの一手法というほどの位置に置かれてもいるわけですが、こうした状況は控えめに言っても刺激的ではありません。

水野 太田くんの指摘は、日本的なCDの「修辞的な使用」方法をまとめつつ、それらが市民社会に実際に介入していくような展覧会というか、催しがあるといいよね、ということでしょうか。

太田 いわば "野に放たれた" CDを思考するうえでは、ストリートアートがよいヒントになるかもしれません。ZEVS(ゼウス)というアーティストが「ビジュアル・キッドナッピング」(ビジュアルの誘拐)と呼ばれる実践をしています。これはコーヒーブランドのビルボード広告を対象にした介入行為で、その広告からモデルの肖像を切り取ることで“誘拐”し、広告主に身代金を要求する活動です。ちなみに、広告主のラバッツァ社は実際にお金を支払ったそうです(笑)。このように、普段私たちが見慣れた都市の景観に介入して異化作用を起こすことに関しては、ストリートアートに知見があるのではないでしょうか。東京では、2019 年初頭に小池百合子都知事がバンクシーの作品を都庁に移し人々が見にいくという現象もありましたね。

水野 なるほど。ここでちょっと思い出したのが、『シン・ゴジラ』 が上映されたときのことです。石破茂さんが、もし巨大生物が日本を襲って来たら自衛隊はどうするのか、ということについて自身のブログで述べていて、それがわりと真面目な議論になったことを記憶しています。もし未曾有のことが起きたときに、既存のシステムがどう対応するのかをシミュレーションするのは思考訓練として重要だ、という石破茂さんの考えは面白いなと思いました。

長谷川 私も『シン・ゴジラ』はよいSDだったと思います。フランスでは、軍がSF 作家を雇うという話もありましたし、RCAの先輩がイギリス軍にスカウトされたという話も耳にしました。軍事や金融危機といった大きな話題について、SFに通じた人材を交えながら国をあげて広く議論することに注目が集まっているのでしょう。

水野 危機管理に対するデザインは重要ですが、その議論が市民になかなか落ちてこない。それによって、なんとなくこのまま日常が続いていくのではないか、といった楽観的な感覚が強まっています。それを少しでも覆せればいいのですが……。

長谷川 とても切ない気持ちになるのですが、日本においてはツイッターにおける炎上が一番なんじゃないかという可能性もあります。スプさん(スプツニ子!)はそんな中をうまく切り抜けているのかもしれません。トニーとフィオナがスプさんを評価している点の一つは、彼女がインターネットをうまく使って普段ホワイトキューブに行かない層にまで影響を波及させていることなんですね。実際、彼女はそこに注力していました。人工知能学会誌の表紙問題の際にもツイッターで積極的に発言していて、よい問題提起になっていたと思います。

デザインの知見を還元するための手立て

水野 政治に目を移すと、イギリスの内閣府にはPolicy Labという機関があり、政策立案に関するデザインが実践されています。その最終的な成果物にはSDの取り組みも含まれています。Policy Labのプレゼンテーションを聞いた滋賀県の方が感銘を受けたそうで、現在ではPolicy Lab. Shigaが立ち上がっています。地方自治体が市民の声を聞いて政策提案につなげる、という活動自体はこれまでも行われてきたことなので、今までとは何が違うのかをしっかり議論する必要はありそうですが、こうした活動を見るに、既存の資源を有効活用し、可能性を拓く活動を地道にやっていくしかないのかなと思います。また、今だれもが考えなければ問題のうち、その最たるものとして環境問題が挙げられます。誰もが避けて通ることができず、かつ必ず考え行動しなければならない未来の問題に対して、今ある場所をハックし有効活用するにあたり、岩渕さんは、デザインの知見をどう還元していけばいいとお考えですか?

岩渕正樹 例えば、今年滞在したD-labでは、トランジション・デザインというアメリカのカーネギーメロン大学が提唱した新しいデザイン理論を使って、ラディカルな未来というよりは、持続的可能な未来に向けて人々の価値観を移行させるにはどうしたらよいか、という大きなテーマに取り組みました。最終的には京都の未来を夢想した私個人の作品のほか、参加型のワークショップも行いました。しかし、発表した場で未来に向けた議論を起こすという目的は達成できたものの、そうした一過性の取り組みで終わらせないことも必要です。成果物やプロセスを常設型で学生や市民の目の触れる場所に設置し、常に議論や実験が勃発するラボ的なしくみは有効かもしれないと感じました。その場として今回のD-labのような学際的でアカデミックな場が市民、行政、企業、研究者のクリティカルなハブとして機能することにも期待しています。

水野 今回、岩渕さんは京都での滞在研究制作でスペキュラティブなシナリオを制作されましたが、同時にどういう思考過程を経て問題にアプローチしていったのかがわかる参加型デザインのツールもデザインされましたね。

岩渕 そうですね。議論を起こすと言ってもその発火点は複数あると思っています。一人のアーティストやデザイナーが制作した最終プロダクトや映像を見て、鑑賞者が議論をする座組もあれば、そこに至るまでの問題設定やプロセスをオープンにして参加型で批評的な議論をする座組もあると思います。今回のD-labでは後者を試してみました。ただいずれにせよ、問題やビジョンを文字情報としてだけではなく、タンジブルな物やツールにするのは非常に重要だと感じています。

水野 一つの成果物だけではなく、複雑な情報や変化をうまく可視化することで世界の変化や今考えるべきことがわかるツールを作れば、単に成果物がよいかわるいかだけを議論して終わることはなさそうですね。長谷川さんは、作品を通して人とSDを共有するために、どのような手法を使っているのでしょうか?

長谷川 例えば「Shared Baby」プロジェクトでは、ロールプレイングゲームを活用しました。3人以上の生物学的な親ができるテクノロジーができたとして、やはり人それぞれに発生する問題は異なります。そこで、例えば参加者に喧嘩をしてくださいというお題を出して、どんな喧嘩の仲裁方法あるいは法的な決め事が必要になりそうかを、多人数で考えていきました。自らペルソナを演技すれば没入感が得られますし、受け身で物語を聞くのではなく自らが即興で物語を紡いでいくことになります。そういう意味で、最近は演劇のメソッドに興味を持っています。デザイン領域において、演劇のワークショップツールはまだあまり試みられていないのではないでしょうか。

水野 ユーザー参加のためのデザインについて、岡田先生はどうお考えですか?

岡田栄造 人々と議論する際に問題になるのは、そもそも自分は何かの提案を受ける側であって、好き嫌いや文句は勝手に言えると思っている人たちですよね。例えばロゴマークをデザインしたら好き嫌いだけを勝手に言い始めるというように、それはデザインの実務上常にあることで。それに対して、D-labの所長である宮田織さんは、まずみんなにロゴをデザインさせます。そうすることで、自分はお客さんだと思っている人たちに作り手視点を与えたり、あるいは作り手自身にしたりするのです。昔からやられている手法ではあるので新しさはないかもしれませんが、日本においては特に効くやり方だと思います。

水野 このような話を聞くと、デザイナーの専門性が薄まっていると感じる人もいるかもしれません。今までは問題解決のためにデザインは存在していると考えられ、重要なのは解決方法であり、デザイナーがその責任を負うとされてきました。この考え方は製品品質を担保することにおいては長けていたかもしれませんが、不確定要素の高い問題が現れ、デザインも拡張しつつあるのだとすれば、新たな認識を持つことが求められますよね。

SF的想像力からの学び

水野 ところで、突拍子もないSDのアイデアを出すことについては、SF 作家の制作方法からヒントが得られそうです。かつてインテル社にいたブライアン・デイビッド・ジョンソンも「SFプロトタイピング」を提唱しています。実は以前、個人的にガルシア・マルケスや安部公房の物語の作り方を調べたことがありました。例えば、安倍公房はトイレを流したら足がはまって動けなくなった、という夢を軸にして物語を作るという話をされています。一方、彼は非常に理知的な人で、超能力に関する小説を描こうとしたとき、当時流行していたスプーン曲げをそのまま信じるのではなく、まずは新潟の燕三条へ赴き、でスプーンが何から作られているかをリサーチすることから始めたい、とも言っていました。理知的でリアリティのある記述と、突拍子もない飛躍のハイブリッド方法という点から学びがあります。

岩渕 アイデアの着想はSDの肝であり、そのプロセスは物書きのストーリーテリングに近いと思います。私が所属するパーソンズのデザイン&テクノロジーでは、ゲームデザインの手法でシナリオを作っていくエクササイズがありました。例えば授業で使ったのは「Shock:Social Science Fiction」というSF系のテーブルトークRPG。実際の出来事からゲームの世界観やキャラクターを作っていくプロセスはデザインの視点でも参考になる点が多々あります。シナリオメイキング力は、これからのデザイナーに必要なことだと思います。

長谷川 私は、最近は『ゲド戦記』を書いたアーシュラ・K・ル=グウィンのSF制作方法などを読み漁っています。

水野 太田くんは、ゲンロンが開催している大森望さんのSF創作講座を受講されていましたし、実作を何本か書かれていますね。

太田 SF創作講座は生徒が書いた作品を、第一線で活躍する作家や編集者が講評するという場であり、実践的にSFの創作を学ぶことができました。ところがデザイン・フィクションに関心を持つ者として痛感したのは、SFの手法をデザインへ応用することの難しさです(もちろん、そうした動機は講座にとっては“ 不純な”ものではあるわけですが、笑)。というのも、デザイン・フィクションにおける「物語世界内のプロトタイプ」やCDにおける「修辞的な使用」では、いわば現実と虚構をつなぐインターフェイスをいかに作るかが問題になるわけです──どのような視座から、どんなところに虚構の“ 窓”を設け、いかに作品を観る者を誘導すれば、現実と虚構が切り結ぶのか。他方で本流のSFや幻想文学などでは、構築された世界全体を箱庭のように作り込むこと、言い換えれば "窓" の向こう側にある虚構の構築性それ自体に意識が割かれます。つまり申し上げたいのは、既存のフィクションでの作法を一足飛びにCD/ SDへ応用することのほかにもやるべきことはあり、それはデザイン学固有の知見として現実と虚構のインターフェイスを作る方法を見直すことだ、とそのように考えています。

スペキュラティヴ・デザインは終わったのか……?

長谷川 それでいうと、『ブラック・ミラー』 はどうなのでしょう?

太田 すべてのエピソードを見たわけではありませんが、迫真性を持ったリアルなSFとして面白い作品だとは思います。とはいえ、虚構のリアリティを追求することがCD/SD固有の手法上の価値に寄与するかどうかは(先述の通り)疑問が残ります。もう一点、『バンダースナッチ』の方はビデオゲーム的な要素を映画に取り入れたナラティブを持ちますが、SDとゲームの可能性については今後も考えられていきそうですよね。

長谷川 私はあの作品を観て、SDの完成形が登場したというか、一つのピリオドが打たれたような気がしました。

岡田 たしかに、ほとんどのSDは『ブラック・ミラー』に負けているかもしれませんね。とはいえ、デザインにおいては作品を体験した人が次にどうするかが重要です。『ブラック・ミラー』を観て何らかの行動が起きるかというと、そうではないでしょう。それはほとんどのSDも同じかもしれませんが、おもしろかったで終わらないところを目指す方向性の違いはあるのではないでしょうか。そういう意味で、『バンダースナッチ』に議論を促すしくみが搭載されたらおもしろい(笑)。

水野 そうなればSDは終わりですね。

長谷川 とはいえ、『ブラック・ミラー』が何もしなかったかというと─個人的に『バンダースナッチ』はあまり評価していませんが─そうではないと思うんです。すでに中国は政府によるランク社会を始めていますが、人間同士がお互いを評価する社会について考えさせてくれました。なぜ私がこの作品にこだわるかというと、現実を虚構をうまくつなげていたからです。

 実は、RCAの卒業制作展で「I Wanna Deliver a Dolphin…(私はイルカを産みたい…)」を発表したとき、トニーとフィオナに「きみはなぜこれをSFでやらないのか?」と聞かれたことがあるんですね、本当にいじわるだと思うのですが(笑)。でもその作品をプレゼンするときに、まるでこれから自分の体でこのプロジェクトを実現させるようなスタンスで説明することで、自分とは違うリアリティを持って生きている人の存在を聞いている人たちに実感させることができました。そもそもSDがプロダクトを扱うのは、虚構のアイデアをプロダクトという買えるものにすることで、自分の生活や現実とつなげるためだったわけです。つまり、初期のSDの言説に戻りつつも、ガジェット信仰的なSDではない思索のあり方があるのではないかと。思索的なSFが現実と手を結ぶということが作品によってはあって、最近Huluで映像化された『ハンドメイズ・テイル/侍女の物語』も、何ももたらさなかったわけではありません。トランプ政権による中絶禁止法に対する抗議に際し、このドラマに登場する女の子の格好でデモに参加する人もいました。現状に対して「No!」を突きつける機会を与えていたのだと、希望を持って捉えたいです。

水野 「『ブラック・ミラー』はSDの終わりである」という発言の裏側にあるのは、問いの質と、それを見た人がどうアクションするかまでを整理してSDを実践するべきだということですね。

さいごに

水野 1999 年には『Hertzian Tales』、2001年には『Design Noir』が出され、それらを日本で岡田先生が早い段階にメディアで紹介され、そして2013 年に『Speculative Everything』(『スペキュラティヴ・デザイン:問題解決から、問題提起へ。—未来を思索するためにデザインができること』久保田晃弘監修、千葉敏生訳、ビー・エヌ・エヌ新社、2015年)が出版されました。段階的にCDやSDの紹介される頻度が上がるにつれて人々の興味は広がっていきましたが、今もって日本で専門的に研究されている方はいません。そのために言葉が一人歩きし始めているようにも思えます。やがてビジネスへの応用を前提としたSDのステップ・バイ・ステップの手引書がデザイン思考同様にまとめられ、SDがもつ可能性が捨象されてしまうのではないか、と危惧しています。

太田 いささか原理主義的にCD/ SDの固有性を探るよう発言してきた以上、「SDは役目を終えたかもしれない」という問題は今後も考えていきたいところです。この座談会でも指摘されましたが、多様な人々が公的に議論をしていくための前提がどんどん掘り崩されている世界的な状況を踏まえてCD/ SDの役割を考える必要があると痛感しています。キーワードを挙げるだけでも、オルタナ右翼やフェイクニュースなどを受けて、安易に「SDを使って議論を巻き起こしましょう」と口にするのがはばかられる現状です。

水野 もはやクリティカル/スペキュラティヴ・デザイナーなる職業は、必ずしもデザイナーと名乗らなくてもいいのかもしれませんね。デザイナーという呼称が付いているだけで、日本ではどうしても「絵が上手い人」といったように、社会における立ち位置が誤解され限定的になりがちです。新しい職能を持った人には、新しい名前を付けてあげるのがいいのでしょう。

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