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『私の好きなタイプ 話したくなるフォントの話』|まえがき試し読み


イギリス国内累計10 万部を売り上げ、世界14か国で翻訳出版されたベストセラー『Just My Type』。欧文フォントにまつわる面白話を集めたコラムの日本語版『私の好きなタイプ 話したくなるフォントの話』を10月20日に出版します(紙の書籍と電子書籍[固定レイアウト]の同時発売です。
http://www.bnn.co.jp/books/10682/

Comic Sans が嫌われる理由などの読み物22 章とFuturaなどの書体コラム11本を収録。IKEAのフォントが変わった理由、ビートルズやローリングストーンズのロゴがつくられた経緯、アメリカ大統領選でオバマを当選に導いたフォントなど、知っているようで知らないフォントの裏話が満載です。

著者は、イギリスの人気ノンフィクション作家、サイモン・ガーフィールドさん。著書『オン・ザ・マップ 地図と人類の物語』や『手紙 その消えゆく世界をたどる旅』などが日本で翻訳出版されています。日本語版の翻訳は、田代眞理さんと山崎秀貴さんが担当しました。

フォントにまつわる興味深いコラムが33本収録されている本書から、「はじめに」の部分を公開いたします。

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はじめに

ラブレター─愛しき文字(レター)たちへ

2005 年6 月12 日、50 歳のその男はアメリカ・スタンフォード大学で大勢の学生を目の前にしていた。彼の口から語られたのは、オレゴン州ポートランドのリード・カレッジで過ごした学生時代のことだった。「キャンパスの至る所、どのポスターにも、どの引き出しのラベルにも、カリグラフィが美しく施されていました。カレッジを退学し、もう授業をとる必要がなかった私は、カリグラフィを勉強してみたいと、クラスを聴講することにしたのです。セリフ書体とサンセリフ書体について学び、文字の組み合わせに応じて字間が変わることや、優れたタイポグラフィの条件とは何かを学びました。カリグラフィの美しさ、歴史の奥深さ、科学では捉え切れない芸術的な繊細さに、私はすっかりとりこになってしまったのです」

退学という道を選んだこの学生にとって、このとき学んだものが後の人生に役立つことになろうとは、まったく想像だにしていなかった。だが、そんな彼に転機が訪れる。この学生─スティーブ・ジョブズがマッキントッシュ・コンピューターを設計したのは、カレッジを辞めて10年後のことである。マッキントッシュはバラエティに富んだフォントを搭載した画期的なマシンだった。Times New RomanやHelvetica といったおなじみの書体だけでなく、見た目や名前にこだわったオリジナル書体も開発され、ChicagoやTorontoなど、ジョブズが好んだ都市の名がつけられた。ジョブズが書体デザインに込めたもの、それは10年前に彼が出合ったカリグラフィ文字のような明瞭さ、美しさであり、少なくともVeniceとLos Angelesという2つの書体には、その手書きの雰囲気が残されていた。

マッキントッシュの誕生は、人間と文字・活字とのそれまでの関係に劇的な変化をもたらした。わずか10年ほどの間に、デザインや印刷など、一部の業界でしか使われてこなかった「フォント」という言葉が、コンピューターを使うすべての人たちに浸透していったのである。

今ではジョブスが携わったオリジナルフォントを目にする機会はほとんどなくなった。もっとも、ピクセルの粗さが目立ち、扱いにくかったことを考えれば、かえってその方がいいのかもしれない。それでも、フォントを変えることができるというのは、どこか別の星からやってきたテクノロジーのようだった。コンピューターの黎明期、搭載されていたのは味も素っ気もないフォントが1種類だけ、イタリックにするなどまず無理だった。それが1984年のマッキントッシュの登場によって、現実世界の文字にできるだけ近づけたフォントが選べるようになったのである。中でも主役はChicagoで、メニューやダイアログボックスに使われ、iPodの初期モデルまで使われ続けた。このほかにも、チョーサーの写本で使われたブラックレターを模したLondon、スイスの企業モダニズムを体現するようなすっきりとしたGeneva、背が高く、豪華客船のレストランメニューに使われそうな優雅なNew York、極端なところでは、新聞の文字を切り取ったような、学校の退屈なレポート課題や身代金要求の手紙にでも使えば重宝しそうなSan Franciscoというフォントまであった。

アップルの先行に負けじと、IBMとマイクロソフトは必死に開発を進め、当時はまだ目新しかった家庭用プリンターは、印刷速度に加えて対応フォントの充実ぶりを売りにするようになった〔昔はプリンター本体にフォントをインストールする必要があった〕。DTPと聞けば、昨今では怪しげなパーティーの招待状や面白味のないタウン誌が思い浮かぶが、それまで組版工の独壇場であった文字組が誰にでもできるようになり、インスタントレタリングシートをこすって文字を転写する煩わしさから解放されたことは、自由という栄光を手にしたに等しいものだった。自分で書体を変えられる、これはつまり表現力、創造力の可能性が広がり、言葉を好きなように操れる自由を得たということなのである。

そして今の時代、日々の生活で表現の自由を味わうのに最も簡単な方法といえば、プルダウンメニューでフォントを選ぶことだ。キーを打つたびに、グーテンベルク以来の文字の変遷を感じとることができる。なじみ深いHelvetica、Times New Roman、Palatino、Gill Sans。書物や写本の断片に起源をもつBembo、Baskerville、Caslon。洗練さを演出するBodoni、Didot、Book Antiqua。ともすれば冷笑されかねないBrush Script、Herculanum、Braggadocio─20年前にはまず知る由もなかったこうした書体を私たちは知り、今ではお気に入りまでもつようになった。コンピューターは私たちを文字の魔術師に変え、タイプライターの時代には想像もし得なかった特権を与えたのである。

それでも、私たちがCenturyよりもCalibri を選ぶとき、広告デザイナーがFranklin Gothic よりもCentaur を選ぶとき、そこにはどういう基準があり、どういう印象を与えたいと考えるのだろう。書体を選ぶとき、私たちが本当に伝えたいこととは何なのだろう。書体は誰がつくり、どうやって使うのだろう。そもそも、なぜそんなにたくさん必要なのだろう。Alligators、Accolade、Amigo、Alpha Charlie、Acid Queen、Arbuckle、Art Gallery、Ashley Crawford、Arnold Böcklin、Andreena、Amorpheus、Angry、Anytime Now、Banjoman、Bannikova、Baylac、Binner、Bingo、Blacklight、Blippo、Bubble Bath(このネーミングはなかなかだ。つながった細かい泡が、今にもはじけてページを濡らしてしまいそうだ)─こうした書体を目の前に、私たちは一体どうしたらいいのだろう。

世界には10 万種類を超える書体がある。たとえばTimes New Roman、Helvetica、Calibri、Gill Sans、Frutiger、Palatinoといった、よく知られたもの6種類ぐらいではだめなのだろうか。16世紀前半のパリで活躍した活字彫刻師、クロード・ガラモンの名を冠した古典書体のGaramondもある。ガラモンは、それまでのドイツの古めかしく重苦しい活字を吹き飛ばすような、非常に読みやすいオールド・ローマン体をつくった。

書体は560 年にも及ぶ長い歴史をもつ。それならば、1990 年代にコンピューターでVerdanaやGeorgia を制作したマシュー・カーターは、AやBの形にどんな新しいことができたというのだろう。カーターの友人がデザインし、バラク・オバマのアメリカ大統領就任の陰の立役者となったGothamはどのようにして生まれたのだろう。書体の一体何が大統領らしく、アメリカらしく、あるいはイギリス、フランス、ドイツ、スイス、そしてユダヤらしくするのだろうか。

門外漢には理解しがたいこうした謎に迫ろうというのが、この本の目的である。だがまずはその前に、書体がコントロール不能になるとどうなってしまうのか、教訓めいた話から始めることにしよう。

(翻訳:田代眞理)

目次など、本書の詳細はこちらをご覧ください。http://www.bnn.co.jp/books/10682/


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