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[NFL]チャド・ヘニーの98ヤード

2023年9月ミズーリ州カンザスシティにあるGEHAフィールド・アローヘッドスタジアム。
前年スーパーボウル王者カンザスシティ・チーフスの開幕戦を鼓舞すべく、ひとりの男が大きなドラムスティックを持ってステージに上がった。
客席を赤く埋め尽くす80,000人のチーフスファンから大歓声があがる。

男はかつてここでチーフスの一員としてプレーしたクォーターバックだった。しかしスターだったわけではない。
5年間の在籍で先発を務めたのはわずか1試合。先発をしたその試合を含む数試合で彼が獲得したのは350ヤードほど、タッチダウンも1回のみだ。
この数字だけを知っている人からすれば、彼に向けられるこの大歓声はいささか分不相応にも思えたかもしれない。

しかし歓声を送るファンの側には、そうする理由が確かにあったのだ。

パトリック・マホームズのチーム

2018年以来、カンザスシティ・チーフスはパトリック・マホームズのチームだ。
この年からカンザスシティ・チーフスはNFLの強豪と呼ばれ続け、2023年シーズンまでの6年間、毎年カンファレンス決勝に出場し、4度スーパーボウルに出場、3度スーパーボウルを制覇している。
これはすべてとは言わぬまでも大部分がパトリック・マホームズの功績だと思われている。
パトリック・マホームズがいなかったチーフスは50年間スーパーボウルに進めなかったし、彼が入団するまでの数年間は多くの二流チームの中のひとつだと認識されていた。
パトリック・マホームズが攻撃のタクトをとりはじめたことでカンザスシティ・チーフスは変わった。
パトリック・マホームズのいるカンザスシティ・チーフスは試合に勝利する確率が非常に高いチームだと誰もから思われているし、反対にパトリック・マホームズがいなければカンザスシティ・チーフスはさほど勝つ確率が高くないと思われている。

その時はきた。

その時はカンザスシティ・チーフスがスーパーボウルまであと2勝に迫った試合の最中にやってきた。

第1クォーター。7対7の同点。
エリートチームであるチーフスが先制したのち、アンダードッグのジャグワーズが追いついたのだ。

続くチーフスの攻撃を率いるのはもちろんマホームズ。しかしマホームズはこの時点で負傷を抱えていた。
これまでのマホームズとチーフスであればそれでもファンタスティックな攻撃を見せ、簡単そうにタッチダウンの7点を奪っただろう。
ただこの日は違った。
マホームズとチーフス攻撃陣は敵陣39ヤードまで進んだものの、その攻撃機会でファーストダウンを獲得することはできず、得点はフィールドゴールによるわずか3点に終わった。
マホームズの負傷は本人が思っているよりも深刻なものだった。

チーフスの3点リード。
攻撃はジャグワーズ。
率いるのは強靭な体力と精神力を持つ若武者にして、大学時代にはマホームズ以上の名声を勝ち得た男、トレバー・ローレンス。
勢いに乗るトレバーとジャグワーズ攻撃陣にとって3点はないも同然の点差。7点獲得による逆転も視野に入っていた。

第1ダウンからどんどんパスを通し、前進するトレバーとジャグワーズ。あっという間に敵陣39ヤードまで進んだ。
ただここでチーフス守備陣と彼らに指示を出すコーディネイターが冴える。それ以上の前進を許さず、このドライブを無得点で切り抜ける。

こうなるとチーフスのターンだ。
自陣2ヤードというボール位置は攻撃を始めるには最悪と言ってよい位置。しかしチーフスにはマホームズがいる。マホームズさえいれば自陣2ヤードからの攻撃開始などさしたる不利ではない。たとえケガをしていたもマホームズなら何とかする・・・。

男の役割

だがチーフス攻撃陣とともにフィールドに出てきたQBはマホームズではない男、スターではない男、これまで5年間の在籍で先発を務めたのは1度だけ、タッチダウンもわずかに1。
チャド・ヘニーという男だった。

マホームズにとって自陣2ヤードからの攻撃はさしたる不利ではない。ただマホームズ以外のQBにとっては明らかな不利だ。それが先発ではないクラスのQBであればなおさら。無難にランゲームでじりじり前進し、パントによって攻撃権を渡して守備陣の活躍を祈る、それがありがちな成功シナリオだ。

アローヘッドスタジアムに詰めかけた80000人もそれを期待した。
とにかくボールを失わないでくれ。
マホームズの治療にめどがつくくらいの時間稼ぎをしてくれ。

男の役割はそれだった。

この時点で前半残り時間は約10分。
この10分を使い切ってハーフタイムに持ち込むことができれば最良だが、10分という時間はあまりに長すぎる。

最初のプレー、男はごく短いパスをショートゾーンに放つ。これをキャッチしたのはマホームズの相棒トラビス・ケルシーだ。
もし一歩間違えばジャグワーズ守備陣は男のパスを奪い取り、逆転のタッチダウンを決めただろう。安全ではないプレーだった。
次のプレー、男はエースRBのパチェコにボールを持たせ、走らせる。なんとかファーストダウンを獲得できた。

まだ自陣16ヤード。一度のミスで逆転される位置。
やはりパチェコのランで数ヤードを獲得したあと、男はまたショートパスを試みる。しかしこれは失敗。
自陣23ヤードからの3rdダウン3が残った。パチェコに託して、もしダメならパントか?前半はまだ8分も残っている。
ここで男はショートパスを選択した。若手のカダリアス・トニーへのパスは成功し、ファーストダウンを獲得する。
ぎりぎりで攻撃続行が決定。

残り7分あまり。自陣31ヤード。
ここでボールを失えば逆転。運が良くても同点。そんなシチュエーション。
男は攻撃を試みるが、2度の攻撃で10ヤードを獲得し、攻撃続行を決定づけることはできなかった。
ふたたび窮地に追い込まれるチーフス。
男はここでまたショートパスを試みる。しかしこのパスはジャグワーズ守備陣に読まれていたのか、ディフェンダーの猛烈なラッシュを受ける。
男に突進するディフェンダー、そして交錯。男はフィールドにたたきつけられる。
だがこのプレーでは男の老獪な技術が若いディフェンダーの突進力をわずかに上回っていた。
ぎりぎりで放たれたボールはトラビス・ケルシーの掌中へ。
さらに男の老獪な技術は敵の反則行為を誘発し、ついに敵陣までボールを進めることに成功した。

敵陣43ヤード。残り5分あまり。
男は役割を果たした。
自陣2ヤードという極端に不利な状況から時間をかけてじりじり前進する。男に課せられた役割は完璧に果たされた。

が、この話には続きがある。
男の出番はそこで終わらなかったからだ。

攻撃続行が決まった次のプレー、男は一度はパスを不成功とするも、次のパスではなんと39ヤードを獲得。
ついに敵陣4ヤードまで押し込むことに成功したのだ。

敵陣4ヤードまで進んだチーフスがタッチダウンを取れないはずはない。たとえマホームズがいなかったとしても。
男のパスはやはりトラビス・ケルシーがキャッチし、7点追加。
若さと勢いに勝るジャグワーズに10点差をつけることに成功する。
これで少なくとも前半に逆転されることはなくなった。

信頼

後半、男がフィールドに立つことはなかった。マホームズが帰ってきたのだから。
このあとは治療を終えた彼の時間だった。
そして彼の時間であればチーフスは負けない。

この試合は男がもぎ取った7点、男が進めた98ヤードによって決まった。

試合終了後、マホームズはまっさきに男に抱きつく。
天才であり英雄であり未来の伝説が、最も信頼を寄せる男の完璧以上の仕事をたたえた。

男は帰っていった

栄光にあふれたスーパーボウル制覇の数日後、男は引退を表明した。

男が5年間の在籍で一度だけ先発の機会を得たとき、観客席には彼の名前が書かれたボードを抱える少年の姿があった。
その傍らには少年の妹と母親。
このスタジアムにマホームズではないチーフスのQBを観に来たファンは少なかったかもしれない。
少年と、妹と、母親は数少ないファンのうちの3人だった。

男は3人の元へと帰っていった。



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