見出し画像

自己満足としての写真

数年前に投稿した写真が、たまにFacebookでリマインドされて上がってくるのだが、あまりの酷さに驚く。過去に遡って消してしまいたいくらいだが、自分の撮影した写真の酷さに気づくというのは、そのときから写真の腕が上がっている証拠でもあると思って、なんとか思いとどまっている。

自分の写真の酷さを一言で言えば、「何を撮りたいのか、わからない」ということにつきる。ただ漠然とシャッターを押していて、そこに何が映っているかということについて無関心なのである。シャッターを押しているということが重要であって、そのアウトプットとしての写真について無関心。こういうのを、自己満足というのだ。

この自己満足というものは、しかしちょっと複雑だ。自分を納得させるためにトレーニングするスポーツ選手は、結果として優れたパフォーマンスを発揮する。自己満足のためだといいながら、それがちゃんと成果につながることも多いし、逆に、他人に認められたいというモチベーションからでは続かない。

写真も同様で、Instagramの「いいね」はモチベーションのひとつにはなるものの、それが目的化すると、自分の作品としての写真が、他人におもねるだけのものになってしまいかねない。どこかで、自分が満足するという観点は重要なのだ。

それが、自己満足と違うのは、「自分」というもののありかたの違いだ。前者の自己満足においては、自己は時間的、空間的なひろがりのない自己であり、いまの私が満足すればそれでよいという刹那的な満足感だ。

一方で、後者の自己は、時間的、空間的な広がりを持つ。さまざまな人の助けを得ながら成長してきた自分が、また将来にわたって参照されることを予期しながら、最善の努力を重ねていく。そうした時間的な重層性があり、また、関係性においても、自分ひとりではなく、チームの中の、コミュニティの中の、もっとおおげさにいえば世界の中の自分という空間的広がりのなかで自己を位置づけている。

この時間的、空間的な広がりの中で位置づけられる自己をどのように満足させるか。この意識が、同じ自己満足といっても、質的に大きな違いを生むのだ。写真においては、むしろ他人の評価に惑わされることなく、自分の撮りたいものを撮る、積極的な自己満足を追求したいと思っているほどだ。その点でいえば、過去の自分は、撮りたいものがわからず、その自己さえも満足させられていないようにも見える。

この文章もそうだ。「いいね」を押されることはもちろんうれしいけれども、仮に誰からも読まれず、誰からも「いいね」されないなかで、どこまで続けられるか。自分の中の内燃機関を動かし続けることへの挑戦でもある。

誰からなんと言われようとも、世間から完全に黙殺されようとも、この自分を満足させようと取り組み続ける。優れた写真家の作品を見ると、いつもそうした自己満足を追求する情熱を感じる。そしてその自己満足は、普遍的な感動につながる。きっと、自己の奥底に、普遍への小さな入口があるのだろうと思う。

大分県保戸島

小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?