盗人にも三分の理

私は度々功利主義者を自称しています。

具体的にどういうことかというと手段は目的によって正当化されると考えていて、たとえ道徳や倫理において悪とされることも全体に対するメリットがあればよしとします。

一番わかりやすいのは飢餓で苦しんでいる人でしょうか。腹を満たすなら盗みも物乞いも仕方がないと考えます。普段であればそういった行動は糾弾されますが、死にそうな状態で生き延びるためなら仕方がないと思います。

動物実験や死刑、世の中にはいくらでもそれ単体で見れば悪でも全体のためならばよしとされているものがあります。動物実験は目的がなければ虐待ですし、死刑に関しては殺人です。そもそも事件の容疑者を捕まえて拘束することも人権侵害に他ならないでしょう。

余裕があればできるだけ人権は尊重されますし、悪い事をする必要もないので純粋に教育に従って悪い事をしなくても済みます。ですがどんな時でも人間は悪い事をしてはいけないというなら甘いと言うしかありません。

何故なら先述の通り社会には目的のために容認されている悪事というものがあり、それが我々の安全な生活を支えているからです。やってはならないことというのは道徳的に悪い事ではなく倫理的な悪、つまり全体に損害をもたらす行為です。

ですがもちろんそれにも線引きがあります。生き物にとって一番大事なのは自分か子供ぐらいなものですから自分と子供が生きていくためにとれる選択肢の中に悪事が含まれていても情状酌量の余地はあります。

しかし自暴自棄になって暴れる人間、通り魔などですね。彼らは目的の解決を放棄しておりただ社会にあだなすだけの害悪です。

一世帯分の命を守るときに出る損害が一世帯分までなら社会にとってはフェアです。もちろん当人たちにとって自分たちの命は他者の命と等価でないので出る損害は必然的に一世帯分以上になるでしょう。その場合情状酌量の余地はありますが裁き、罰を十分に与えることによって犯罪を抑止しなけらばならなくなります。

極端な話生きるためなら何をしてもいいと私は考えています。ただ衣食住が足りるようであればできる限り他者に迷惑を与えず質素に生きるべきとも考えており、十分安定した生活を送りながらも無限の欲望をもちいつまでも満ち足りない人間にならないことに皆が努めれば社会は安定するでしょう。


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