𓏸𓏸のために作られた芸術

有名な人のツイートを見て、色々思うことがあった。災害等で苦しんでる人に向けて、アーティストが音楽を作ることに対して違和感を感じるというものだった。加えて、それを表明すると薄っぺらくなるというものだった。
この違和感とはなんだろうと考えてみた時に、偽善的、美談めいている、そのアーティストの芸術性を歪めているといったことが浮かんだ。アーティストである以上普通の人よりも物事への感受性は豊かであると思う。ならば、災害などの映像を見て、それを動機として作品を作るということは自然なことではないだろうか。RADWIMPSや新海誠などその代表例のように思う。私自身が英文学を専攻していることもあって、誰かを救うための芸術というものを目にする機会が多かった。アメリカの文学などは社会問題から影響を受け、それを救うために作ったことを明言されている作品も少なくない。私はそれを見て、違和感を感じたことはないように思う。
苦しんでいる人のために書きましたと表明すると、薄っぺらく感じるというのはどうしてだろうか。その違和感を感じている人が、問題の当事者では無いのではないかと思った。当事者の多くは実際の体験と重ねることで、作品を共感できるものとして受け取ると思う。その作品が好みであるかという点は主観的な問題なので除いて。逆に、当事者でない人はそれが難しい。自分に向けて作られていない芸術は共感しづらく、受け入れるのはむず痒い。
関係があるかは分からないが、次の話を思い出した。
昔は好きだった作品の最新版を好きになれないことがある。もちろん最新版では様々な変化が加えられている。これに対して、作品の善し悪しではなく、自分自身がその作品の想定している顧客ではなくなっただけだという考え方が話題になっていた。とても納得のいく考え方だと思った記憶がある。
作品の想定している受け取り手であるかという点で今回の話と関係していると思う。想定されてなければ、共感は難しい。今回の話では作品の対象が明言されているため、自分がその対象から外れていることがより明白である。尚更作品に対する共感は難しくなる。
私としては、芸術家の創作の動機は自由であるべきだし、受け取る側の感想も自由であるべきだと思う。今回の有名な方の受け取り方も肯定されるべきだと思う上で、私は誰かを救うために作られた芸術を愛していきたいなと思う。

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