Mein Mutter hatte Geburtstag!(ママ生誕)
実は、私の母は一昨日誕生日だった
せっかくのことであるし
私にとり、重要人物であるため
また、変わった人であるため
母について書こうと思った次第である。
『枯木灘』著:中上健二を読み「家族」について考えたのも動機の一つである。
私と母親
私と母親の関係は、私が一人っ子ということもあり、
母親でもあり、姉のような存在であったように思う。
要するに気安い関係というのだろうか。
私が修学旅行で夢精したことは普通に話したし、
女性関係で失敗した際も、相談した。
何より25際になった今も、一緒に映画を観たり、買い物に行ったりなどしている。
一見、素晴らしいように思われるかもしれないが、
やはり私の母親。
行動力がありすぎるところもあって、
私の高校生時代、
よく昼休みに私は自身の弁当を盗み食いされていた。
盗み食いした男は
「味は・・・30点やな」
と言っていた。
このエピソードを家で母に話したところ、
「人の作った弁当に、失礼なやっちゃ!!!」
と怒り狂い、
丁度、授業参観期間中であったため、翌日にそいつを脅しにいった。
※授業参観で来た父母は、全校で私の母親だけだったらしい。
母親を見た、当時のクラスメート達の反応は
「あいつの母親にしてはまともそう」
※脅す前の印象
今から思うに、つくづく失礼な連中である。
ついでに、私の紹介↓
苦労ばかりの幼少期
そんな母親の幼少期について、色々訊いてみたところ、
①密閉できない団地暮らし
②母親がわりと、無関心な両親
③そろばんの天才
こんな感じであったらしい。
①
母親の実家は2階建てが連なる団地であった。
(『ドカベン』に出てくる長屋が、二階建てになったものをイメージして頂きたい)
二階への階段が縦にも横にも狭かったのを覚えている。
数年前行ったら、身長184cmの私は何度も頭をぶつけた。
さらに、あの家は実は勝手口の扉と屋根に隙間がある「仕様」だった。
密閉ができないのだ。家のはずなのに
平成の話とは、今考えれば思えない。
ちなみに、母親は大の猫嫌いである。
その原因もその「仕様」にあって、
当時6歳の母が昼寝をしていたところ、猫が侵入してきて
突然、足の裏を舐められたのがトラウマとなっているらしい。
・・・和歌山は日本じゃない説
②
そんな家に住んでいる、母以外の家族はどうなのかというと、
元暴力団員、元炭鉱夫の父(母から見て)
リウマチもち、ヒステリー気味の母(母から見て)
成人した際には、自称パチプロとなり、母親が全て違う3児の父となる兄(略)
・
・
・
8/10に帰省した際は、
もっと母に優しくしようと思う。
私の母は、当然ながらというのか、仕方ないというのか
私に幼い頃の話はしてくれないが、
恩人がいるようで、私の祖母の妹(母から見た叔母)は、母に優しくしてくれたそうだ。
だが、5歳のときにその人はシアトルに発ってしまう。
私の母方の曽祖父も変わった人で、那智勝浦の生まれらしいのだが、
ある日太平洋を見ていたとき、
「向こう側を見たい」
と突然シアトルに渡り果樹園を持つまでとなったのである。
シアトルに曽祖父の息子があり、その奥さん(日本から渡ってきた)が
生活様式の違いからかおかしくなり、曽祖父の息子の子供達の世話をするため、
旅立ったということなのだ。
母親は、恩人が発つのを泣いて止めたようだが、叶わずに
そろばんと読書のみを楽しみに、程度のあまり高くない中学高校(高校は私の母校と同じ)に通い、18歳で大阪に就職する。
要領のいいところがあり、
職場では「神様、仏様、生熊(旧姓)さま」と呼ばれるほどであったそうだ。
(当時、「神様、仏様、稲尾様」というのが流行していたそうな)
思い出したが、私にブラインドタッチ習得を勧めたのも母であった。
③
そろばんが趣味だと先述したが、実際母は小6で1級をとっている。
(あの家庭環境で、近所の米屋の「知恵遅れ」のおっさんに自転車で追いかけまわされながら教室に通ったそうだ)
だが、母親が暗算が得意で、代わりにやってくれるため、
私は暗算が不得意になってしまった。
未だに私は、15と30をたまに間違えるくらいだ。
(2倍したら一緒やん!と言い訳を試みるなどしてみる)
母親、その影響
本
母は、結婚を機に夫の実家近くに住むことになり
私を生むこととなる。
ちなみに、どういうきっかけで結婚したのかは全く教えてくれない。
やはり、結婚を後悔しているのだろうか。トラウマになっているのか?
まあいい、父に今度訊いてみよう
本題に戻ると、母はとにかく小説をよく読んでいた。
家計のこともあり、図書館で借りたものが家にはずっとあった。
やがて、幼少期の私もそれを手に取るようになる。
実は、私は子ども向けの絵本などはあまり読んだことがない。
そう、最初からイラストなし、漢字たっぷりの本を読んで、
母親にわからないところを訊きながら読んでいたのだ。
(8歳ぐらいのときかな?)
そのおかげで、昔から「国語」と名のつくものには苦手意識はなかった。
いい母親なのかもしれない
(私が小説にハマり、『愛の流刑地』を小学校で読んでいたところ、教師に「頼むからやめて」と言われてしまった原因を作ったのも、言うなれば母であるが)
また、発達障害持ち(当時は診断が下りていない)の可能性が高い私に、えらく期待していたようで、欲しい本は全て買い与えられていた。
こちらとしても、気を遣うのでほとんど図書館で借りたものを読んでいたが。
大学進学の際も、「私立でもええよ」とは言われていたが、
私の逆張り精神が発動し、国立大一本に勝手に決めたのである。
これが、後にも先にも親の言うことをきかなかった唯一の、私の決断である。
(母は受験勉強で追い詰められていた私を見て、生理不順になったそうである。
本人談)
掃除
もう一つ、私と母の関係で欠かせないのが「掃除」である。
母親は掃除をしないと落ち着かない性分で、平日だろうが土日だろうが
加齢によりたるんだケツを振り回し、床などを磨く。
しかし、夫は部屋の環境には無頓着で衣服は散らばっている。
一人息子はADHDで、物をしまうと何がどこにあるのかわからなくなるため、置きっ放し傾向がある。
そのため、父と私はよく怒られた
今は母も丸くなったものの、昔はすごかった。よく父はあんなに平然としていたものだ(相変わらず部屋は汚い)。
また、21歳ぐらいのときに帰省した際には、
私が14時間ほど寝た事件(?)が起こった。
そのときも1日中機嫌が悪くなった。
どうやら、私が寝ているせいで掃除ができない上、朝食を食べず、片付けが進まないことが癪に触ったようである。
母親もこだわりが強いようで、自分の思う通りに物事が進まないとこうなる傾向が昔からあるのだ。
「じゃあ、無理やり私を起こしたらええやん」とそのとき母に言うと、
「無理やり起こすのは可哀想やし、あんた起きやせんやろ!!!」
と言われた。
変わった人だなぁ(発達障害者並感)
一応の感謝
とはいえ、私に読書の世界を教えてくれたのは他でもない、母である。
こだわりは強いが、「どうせあいつ(私)は言うこと聞かへんわい」と
「諦めてくれた」のはありがたいと思っている。
また、母は私にずっと、地元のW大(国立大)を出て公務員になって欲しいと言っていた。
しかし、私がそうするはずもなく(人の言うことなど聞きとうないので)、
平然としていても、非難もしない。
また「諦めてくれた」のだろう。
生まれてこの方、「普通になってくれ」と言われたことは、ただの一度もない。
母は現在、一人息子も独り立ちし「人生に悔いはない」らしい。
ふざけるな。勝手なことを。
こうなったら、実家に帰った私が、母親の手をわずらわしてやるしかなかろう。
苦労をかけ、ボケ防止し、長生きしてもらって、もらった年金を私がふんだくるのだ。
楽しみにしてろ、ママ
俺を残して逝くんじゃあないぞ
以上