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マイ・ラスト・ソング 2023 久世さんが残してくれた歌 I’M A SHOW 2023.6.11.

ツアー千秋楽の東京公演。初日の横浜よりも曲が増えていたように思うが、基本的な構成は同じ。横浜公演はこれまで演ってきた内容を凝縮したような、ある意味、原点回帰という印象だったし、今もその感想は変わらないのだけれど、ニュアンスは少し異なっている。

山崎ハコからの花が意外だった。

終わってみて感じたのが、いわゆるコンサートや演劇という舞台的な要素が薄かったこと。個人的にいちばん近いと思う感覚はトークショーだろうか。こう書くと軽い感じだし、ありがたみも無くなってしまうように思うが、これは正直な…しかも強力な感想だ。ただし、これは決してネガティヴでマイナスな印象ではないことを断っておく。ツアーと同時発売された『マイ・ラスト・ソング アンソロジー』のCDをひっさげて全国ツアーを組み、昭和の名曲と久世光彦の思いを行く先々の人へ届けるには、これが最適の形だったのだろうと思うからだ。

シンプルなステージ

2008年の第1回。世田谷パブリック・シアターという会場もあって、演出は演劇的な面もあったし、ステージにあったのも、ほぼエッセイと曲、朗読と歌。言葉と声とメロディだけだった。観客も初めての体験だったので、何を投影し、受け取り、感じるのかは自由だった。さらに、取りあげられるのは久世光彦の誰もが知る曲にまつわる、かつ、映像が浮かぶエッセイばかりである。小泉今日子の声で文字が音となり、浜田真理子が歌う曲が輪をかけることで、観客は同じ絵ではあるが異なる色でアタマに浮かべることができた。会場はその思いで満たされ、感動的な空間が作られていた。この雰囲気はこの後に続いた『マイ・ラスト・ソング』でも同じで、エッセイと曲から、そして朗読と歌から、観客は各々で何かを受け取って、その空気を共有してきたのである。

そんな不動のプログラムは、2020年に下北沢で開催されたときに変化する。これまでの決められた演出や構成ではなく、『マイ・ラスト・ソング・カジュアル』のタイトルと共に『番外編』とも謳われたそれは、水曜劇場をテーマとしたことで、リラックスした進行と気軽な雰囲気が久世ドラマのとりわけ楽しい部分を浮かび上がらせていた。朗読に徹していた小泉今日子が歌うという嬉しい予想外の展開もあり、音楽側に針が振れたことが、結果的に久世光彦がドラマで使用した楽曲が普遍性を持つ名曲ばかりだと証明することにもなり、ライヴ的な舞台にもなっていた。ここはある意味で分岐点だったのかもしれない。そう感じたのは、今回のツアーが、良い意味でこの “ カジュアル “ を超えた内容だったからだ。まるで小泉今日子、浜田真理子、そしてゲストで参加したMarinoが集う部屋に呼ばれ、一緒に過ごしたような時間。カジュアルのテーマで開催されたとき以上にステージと観客の距離が近い。そう思った。これまでは、朗読と歌の後に、その余韻を観客自らが決めて味わえる時間があったが、今回はその都度で、くだけたMCによる曲にまつわる話や解説が入れられる。“ 朗読と歌よりトーク “ と言ってもいいほどの構成は、冒頭に書いたように、例えるならばトークショーで、その中に朗読と歌が挟まれる印象だった。部屋に呼ばれて一緒に過ごしたと感じたのはそういう意味である。だから、今回のプログラムから僕が受けたのは、グッとくる瞬間はあったにせよ、過去には多くあった心が揺さぶられて涙が出るようなことなどではなく、みんなで同じ場を通して共有する楽しさだった。

” 最後は久世さんまったく関係ありません。私が踊りたいだけです “

アンコール。小泉今日子がこう言って始まったのがピンク・レディーの「UFO」。聴き応えのある渋いアレンジで演奏し歌われたこの曲の横で、あの振り付けで踊るキョンキョンを、お客さんたちは、やはり " 久世さんは関係なく " 見て聴いて楽しんでいた。僕がここまで書いてきたことが、ここに見事に集約されていたのではないだろうか。

公演グッズでツアー初日にはまだ発売されていなかったマルベル堂ブロマイドセットを入手。

その都度で異なる色がつけられ新機軸で開催されてきたが、” 死の間際に一曲だけ聴くことができたら、あなたはどんな歌を選ぶだろうか " という不動のテーマと、やはり第1回から存在する “ よい曲を聴かせたい、広げたい、伝えたい、そして残したい “ というもうひとつの柱。久世光彦が残した言葉や曲に対する思いなどと共に、音楽、ミュージックの素晴らしさも再認識させてもらえるのが『マイ・ラスト・ソング』だ。15年が経過した今、ハッキリとこれが見える。『マイ・ラスト・ソング アンソロジー』のCDが発表されたことでも、それはわかる。16年目以降が今から楽しみだ。

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