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「人は見た目で判断してはいけない」というのは結構ムリがあるのではないか(東北新社と総務省の問題を受けて)

時事ネタになってしまうのだが、東北新社が総務省幹部への接待を行っていた問題について少し触れたい。と言っても、別に総理大臣の息子だから云々……という議論をするつもりはない。今回書いておきたいのは、

「人を見た目で判断してはいけない」

という文言は、真摯に実践するとワリに合わないのではないか、ということである。もちろん、異論はあるだろう。

考えの発端はビートたけし(今は北野武と言ったほうがよいのか?)が、件の人物の写真に対して「クラブで麻薬で捕まったやつかと思った」とコメントしていた点である。Twitterでこれに対しては、「人を見かけで判断するな」と「この写真では納得のコメント」という意見が(大分乱暴にまとめて)見られた。

私のスタンスとしては、「見かけで判断してはよくないのは分かるが、でも見かけで判断せざるを得ない場面があり、その初動対応に遅れるとこちらが被害を被る。だから、大変申し訳ないが一定程度は見かけで判断させていただく」というものだ。回りくどいが、誤解を招かないように丁寧に記載した。

特定の人物を挙げて貶める目的はないので、以下は極論に近い形で上記の論を補足する。

まず、そもそも「人」は見かけで判断してはいけないのだが、ここでいう人という定義は、実はそれこそ人によって異なるのではないだろうか、と考えている。しばしば「人でなし!」とか「あいつは人じゃねえ、悪魔だ!」という台詞は(ここまで尖ったものではないにせよ)日常生活で確認することが出来る。その場合は、自分の理解できる範疇を越えてしまっていると言う意味で、それは同じ目線に立つ「人」ではないのではないだろうか。もっと言えば、自分が依拠している信念・信条から著しく乖離している人々を、人は人として認めてはいないこと、これは過去の宗教戦争を見ても明らかである(多分、いずれの教義でも大なり小なり「汝の隣人を愛せ」といった旨の言葉が記載されているのではなかろうか)。

もちろん、現代日本では上記の宗教戦争的なことは決して当てはまらないかもしれないが、例えば「〇〇地区の子とは遊んじゃだめ」「あの大学はアホすぎて話にならない」「関連会社の人間とは話が合わない」という、現在もありふれた会話の中には、上記宗教戦争から連綿と繋がるものが見え隠れしている。我々は決して教義の違いで血の雨を降らせていた時代から遠い存在ではないのだ。

ということで、我々は「理解できない」人を、(法律的な意味はさておき)「人」と認めていないフシがある。もちろん全員がそうと言うつもりはないが、程度問題こそあれ大多数の人がそれあてはまるものを、心の中で持っているのではないだろうか。もちろん、私もそのうちの一人である。例えば、私は赤ん坊を「人」としては評価していない(繰り返しにはなるが、法律上の云々の問題ではない)。彼ら彼女らに倫理観やTPOを決して求めない。自分のケツは自分で拭け、という部下に求めがちなワークも、決して要求しない。私は彼ら彼女らのケツを丁寧に拭いてやる。これは、人として認めていないからこその所作だと思う。

ここで浮かびあがるのは、おそらく私は「言語を介したコミュニケーションが出来そうな存在」を「人」としてごく個人的に定義し、対応しているのだと思う。この「出来そうな」というのがミソで、一々赤ん坊に対して「あなたは日本語でコミュニケーションをとれますか?」と確認しない。電車で泣き叫ぶ赤ん坊に対して、自制を求めたりはしない。むしろ、赤ん坊は泣くのが仕事であるが故に、賞賛してもよいと思っている。

そして、それは私が「赤ん坊」を見かけで評価しているからこその行動である。原理主義的に「人は見かけで判断してはいけない」を愚直に守るとすると、まず赤ん坊に対してコミュニケーションの可否を問い、その上で「泣くの、OK!」と赤ん坊の保護者に対して言って回らねばならない。これでは私の名誉が棄損されるだろう。少なくとも、電車で隣の席に座りたい人物とは言えなくなる。

もっと極端な例で言えば、赤ん坊でなくてもよい。無理を承知で言うが、例えば、街で見かけた犬に対して「首輪をつないで裸で散歩させられている。これはもし人であったら、重大な人権侵害である」と思ってしまえば、その瞬間にお犬様に対して「あなた、日本語でコミュニケーションはとれますか? 住民票、ありますか?」と確認しなくてはならない。無論、土佐犬に対してもだ。そしてその結果は明白で、「ワンワンワン!」のあとに「ガブリ」が来るだろう。多分、保険も下りないし裁判にも負ける。でも、見かけで判断しないのであれば、まずはコミュニケーションをとれるかどうか確認しなければいけないので、このワンワンガブリのプロセスを挟まざるを得ないのだ。ガブリされたくないので、私は「四本の足で歩いていて、毛むくじゃら」なものは、多分「人」ではないとして、人権有無の確認プロセスは採用していない。

さて、まさか「犬」と「赤ん坊」に対して成人と同じコミュニケーションをとらんとする人はあまりいないのではないかと思うが、ここからが本題である。大きな問題提起がある。

「一体、我々はどこで線を引けばいいのだろうか」

ここでは、「線を引くな」という掘り返しに対しては明白に棄却したい。赤ん坊と犬に対して一々コミュニケーション可否を確認する人はいない。そしてそこに間違いなくラインは存在する。そのラインとは、「見た目で判断するライン」である。いや、犬も赤ん坊に対しても確認します、という人は次はプレデター氏に果敢にチャレンジして欲しい。「犬と赤ん坊は全然違う話だろう。それは一般の人という枠組みから外れている」と言う人は、自分の言った「枠組み」という日本語を今一度確認して欲しい。

さて、前提を置いた上で、やはり我々は自分が被害を被らないために、ある程度「見かけで判断する」必要があることが分かった。そしてそのラインをどこで引けばよいのだろうか。

ここから先は、非常に倫理的にセンシティブな議論になることが予想されるため、その旨予めご了承いただきたい……と思ったのだが、別にここから先の話は個々人で考えればよいだけで、なにも共通のラインを作る必要はないなと思ってしまった。なので、この話はここで終わり。

ひとつだけ言っておくならば、もし模範的アジア人的容姿をした私は欧米圏で旅行を敢行した際に、現地の言葉で喋りかけられれば、(英語からの乖離度にもよるが)それなりに困ることは間違いないので、できれば特段の配慮が欲しいと思う。一方で、幼少期から模範的アジア人の容姿を持ちながらもその地で生活する人もそこはいるだろう。しかし、それは圧倒的少数派だ。なので、その模範的アジア人容姿をもつ現地人は、おそらくあらぬ誤解を受けたり、不必要な配慮を受けている可能性が高い。でも、私は現地の人(アジア人的容姿を持たない、いわゆる現地人)に対して、決して「現地語を喋られるかどうかを確認してから、コミュニケーションをとってくださいね」と強いることはできないし、そうしないのである。なぜなら、そんなことをいう権利は持ち合わせていないし、もっと言えば旅行者である私にとってはその方が都合がよいからである。

利己主義のそしりは免れないが、私とはかくも手前勝手なものだ。

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