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誰かの暗い足もとを照らす光になれたなら

◆「書くこと」が私の生きる意味になる


「自分のペンでごはんを食べて生きていく」

いつからかそれが私の夢になった。
といっても、本来の「夢」のように、希望に満ちた響きのあるものとは少し違っていたかもしれない。ただ、それがこの世で唯一の「自分の存在意義を見出せる方法」だった。

子どもの頃から何も得意なことがなく、劣等感の塊だった。
運動神経ゼロ、歌も絵も下手、見た目もパッとしない、極端な偏食でこの世のほとんどのものは食べられない、引っ込み思案で臆病者。
7歳の時の記憶は、「生きていくのはしんどいな」だ。まだ子どもだから、「生きていくのがしんどい」=「死にたい」という思考にはならなかったが、毎日学校へ行くのが辛かった。
今思えば、「何かから逃げること」ばかり考えていた毎日だった。いじめっ子の男の子から、食べられない給食から、みんなに笑われる体育の時間から、放課後のやりたくもない鬼ごっこから。
どうしたら今日一日を逃げ切れるか。
そればかり考えて生きていたから、しんどかった。小学校の低学年までは1日1回は必ず学校で泣いていた。泣くことで逃げ切れることもあったからだと思う。

好きなことはちゃんとあった。お花と人形と手芸と読書だ。
母が育てている庭の花に囲まれて過ごしたり、人形相手にひとり遊びをしたり、母から布や糸をもらって何かを作ったり、本を読んで想像力という翼を広げたり。
そんな時間があったから、「しんどい毎日」をなんとかやり過ごせていたのだと思う。
それから、「書くこと」も覚えた。
今日あった嫌なことも、明日への不安も、なぜか書けば楽になることに気づいた。人より文章が“少しだけ”上手なことも先生の褒め言葉で知った。友達とのコミュニケーションも「交換日記」や「手紙」でとると、うまくいくことがわかった。

食べられるメニューが増え、引っ込み思案な性格をごまかすことを覚え、親友ができ、毎日を笑って過ごせるようになったのは小学5年生の頃からだ。
ただやはり心のどこかで「生きていくのはしんどいな」と感じていた。
何のために生まれてきたんだろう。
私の存在意義って何だ?
いつもそんなことばかり自問自答していた。

また、成長するにつれて、この世界が不平等であることを知り、それに無関心でいることができなくなった。
無知であることは怖い。だけど、知ることも恐ろしい。
障がいを持って生まれてくる人がいること、世界に飢えている人がいること、戦争で死んだ人や今も紛争に巻き込まれている人がいること。
この世の不平等に対して、幼い自分はただ無力だった。

宮城まり子さんの「ねむの木学園」について書かれた本を何冊も読み、将来は身体の不自由な人や、親のいない子どもたちのために働きたいと思うようになった。そうでもしなければ、笑って生きていけない気がしていた。
いつしか「自分は」というより、「人は」何のためにこの不平等な世界に生まれてくるのか。そして、自分は不平等に対して何ができるのか。
そんなことばかり考えて生きるようになっていた。

そんなある日、灰谷健次郎さんの『兎の眼』という本に出合う。
内容も素晴らしかったが、私の心を完全にとらえたのは、本のカバーの内側に書かれていた筆者の言葉だった。

子どもたちの優しさが、すべての人々の足もとを照らし、未来に向けて歩もうとする太陽のような希望を、どのような不幸な人でも持てるような物語を、いつか、わたしは書きたかった。

灰谷健次郎『兎の眼』(理論社)のカバーより
1980年9月 第62刷発行

ここに光を見た。
そうか、私ももしかしたら「書くこと」で、誰かの暗い足もとを照らすことができるのかもしれない。そういう物語を私も書きたい。
漠然とだが、そう思うようになった。

そして、その後読んだ灰谷健次郎さんの別の本の中に、
「人が愛することができる数は限りがあるが、“仕事”を通すと、愛は無限に広がる」
という意味の一文に出合い、ハッとする。

「書く」だけじゃない。
書くことを“仕事”にすれば、目の前の人だけでなく、もっと大勢の人に言葉が届く。愛は、人の思いは、無限に広がるのだ。
世の中の不平等に対して何もできない自分。それどころか、目の前の人にすら何もできず、無力さに打ちのめされる。
だけど、もし、書けたら……?
書くことを仕事にできたら……?
こんな私でも、誰かに「明日も頑張って生きていこう」と一歩踏み出せる勇気を届けられるかもしれない。
そうしたら、それが私の生きる意味になる。

その考えにたどり着いた時、私は書いて生きていくことを決めた。

◆組織に属さず、フリーランスで仕事をする


子どもの頃から変わった思考を持っていたが、大学に入る頃には、社会性のなさを存分に発揮するようになっていた。

中学生の頃、デビューしたての反社会的だった尾崎豊にかぶれたため(それもかなり熱狂的に)、
「サラリーマンにはなりたくねぇ。朝夕のラッシュアワー、酒びたりの中年たち」
「鉄を食え、飢えたオオカミよ。死んでもブタには、食いつくな」
などという歌詞がいつも(今でも!)頭の中をまわっており、大学生の時に会社に就職しないと決めた。実際、これまでどこの組織にも属したことがない。
「組織に属す」ということは私にとって、「毎日同じ場所へ満員電車に揺られて通う」「お昼ご飯を同僚と食べる」「書く仕事以外のこともやらされる」「付き合いたくない人とも仲良くする」ということだった。それは何よりも嫌で、死んでもやりたくないことだった。

ちなみに、ライターを27年も続けている今、出会った人に「どこの組織にも属したことがなく、ずっとフリーランスでライターをやっています」と言うと、「すごいね」「なんかカッコイイ」と言われることもある。
だが、そのたびに照れたように頭を下げながらも、心の中では「いや、よく考えてみてくださいね。単に自分勝手でわがままで、嫌なことから逃げて好きなことを仕事にしているだけの、社会不適合者です。どうしようもない人間ですよ」とツッコんでいる。(言える相手なら実際そう言う)

大学時代、無謀だと言われながら、そして自分でも痛いほど無理だとわかっていながら、「作家になる」と言い張って、一度も就職活動をしなかった。一応、国立大学を卒業していたので、父は「教師になってほしかった」と嘆いたが、母は「あら~、やりたいことがあるって幸せなことねー。いいじゃない。早く直木賞とってよー」とまったく反対しなかった。

だから、大学を卒業した時の私はただの「作家志望のフリーター」だった。学生時代からやっていた塾講師のアルバイトを続け、家事をすることで実家に住まわせてもらい、1円にもならない小説を書き散らしていた。
父親を納得させるために編集教室のライターコースへ通い(と言っても学校ではなくカルチャースクールのようなものだ)、「作家がダメでもライターとしてやっていくから」と言って、なんとかその場をしのいでいた。

1年後、ライターコースを修了する時、先生に「今後の進路」を聞かれ、私は「フリーランス」を希望した。
教室にいくつか求人も来ていたが、社会不適合者の自分が今さら組織で働けるとは思えなかったし、心のどこかでまだ作家になることもあきらめきれていなかったからだ。

先生は「じゃあ、自分から世間に働きかけないといけないよ。あなたというライターがこの世に存在していることは誰も知らないんだから」と言葉を贈ってくれた。

そうか。まずは「山王かおりというライターがいること」を世の中に知ってもらい、とにかく仕事をしなければと、私は「フリーライター」の肩書で名刺を作り、教室で紹介してもらった編集プロダクションに連絡をとった。
そこでは「るるぶ」や「マップルマガジン」などの旅行ガイド誌の取材記事をいくつかやらせてもらった。信じられないほど過酷で安い仕事だったが、書けることはうれしかった。

それから、塾講師をしていた経験を買われ、小学4年生の家庭学習教材の国語の問題集を作ったり、国語の入試問題の解答解説を書いたり、数学の「教科書ガイド」の校閲をしたりという、思い描いていた「ライター」とはあまり関係ないような仕事も受けるようになった。
生活のためには、塾講師のアルバイトも続けるしかなかった。

◆初めて自分の力で「書く仕事」を得た日のこと


ふと気づくと、「鉄を食うオオカミ」どころか、「ブタに食いつく」ことすらできない生活を送っていた。
周りの友達はみんな普通に就職したし、そうでなければ大学院に行ったり結婚したりしている。もう子どもを産み母となった人もいる。
私だけが何もない。
創作活動も進まず悶々とし、いつしか酒が友となり、「フリーライター」という名のフリーターとして、何の希望も持てない日々を送っていた。

「誰かの暗い足もとを照らすものを書きたい」だと??
いやいや、まずはグラグラした自分の足もとをどうにかしろよ!
笑ってしまうくらいカッコ悪かった。
子どもの頃に抱いた「夢」も、ライターとしてようやくつかめそうだった「自分の存在意義」も、アルコールに溶けていく毎日だった。

そんなある日突然、本当に突然、「このままじゃダメだ!」という気持ちに襲われた。本当にダメになると思った。
特にこの日、何かがあったというわけではない。いつものように塾で教えて、お酒を飲んで帰る夜道だ。
でも、確かに「その日、その時」だった。私の人生には時々こういう奇跡のような「ひらめき」が降りてくる瞬間がある。
なぜか「とにかく動き出そう!」と思い、その気持ちに押されるようにコンビニへ走った。編集教室の先生の「世の中にあなたの存在を知ってもらわなければいけないよ」という言葉もよみがえってきた。
私は求人雑誌の「とらばーゆ」を買うと、何か「書く仕事」がないか、ページをめくっていった。
そこで出合ったのが1行のコピーだ。

『ちょっと出張行ってくる。』

見た瞬間、ドキドキした。
出張に行く様子の女性の写真に、このコピー。求人内容は某企業の社内報制作の編集・ライターの募集だった。写真スタジオを50店舗ほどチェーン展開している企業で、「全国の店舗をつなぐ社内報を作ってほしい」とのこと。
「未経験OK」の文字も確かめ、これだ!と思った。
ただ問題は1点。「正社員募集」とある。
私は絶対にフリーランスでやりたい。それをなんとか理解してもらおうと、そのことも書き添えて履歴書を送ると、後日、「試験・面接の案内」が届いた。

試験当日――。
大阪のとある会場には若い女性ばかりが大勢集まっていた。ざっと見たところ50人はいるだろうか。みんなリクルートスーツだが、それさえ持っていない私は、できるだけ地味なネイビーのワンピースを着ていた。この時点ですでに場違いだ。

さて、試験とは、就職活動の時にみんながやっていた一般常識や教養を求められる筆記テストだろうか?やったことのない私にできるのだろうか?
生まれて初めてのことに緊張する。
時間になると、進行役の男性(人事担当者)が出てきて挨拶をし、試験内容を発表した。

「これから弊社の社長が、弊社の経営理念や社訓について話します。みなさんはそれを聞いて内容を文章にまとめてください。それが試験です」

今度は社長らしき男性が現れ、壇上で話し始めた。
店は何のためにあるのか、なぜチェーン展開するのか、なぜ企業は経営理念が大事なのか、なぜこのような社訓があるのか、人はどう働くべきなのか、働く幸せとは何なのか――。

組織といえば「学校」しか知らず、「企業の考え方」というものに触れたことがなかった私にとって、その話は衝撃的だった。
メモをとりながら感動で何度も泣きそうになった。心の震えが止まらなかった。こんな素晴らしい会社が世の中に存在するのかと、驚いてもいた。
と同時に、自分の無知と未熟さにも気づいていた。
自分は何一つ社会のことを知らないし、知ろうともしてこなかった。半径数メートルの狭い世界で、好きなことだけ選んで生きてきた。何も知らないくせに、会社なんてどこも似たりよったりで、組織に属すということは「飼い犬」になることだと思い込んでいた。
今思えば、単に理由をつけて「嫌なことから逃げていただけ」だったのだが。

はたと目が覚め、「今のこの感動を言葉にすれば絶対良いものが書ける!」とは思ったが、これは試験だ。単に要点をまとめただけでは人と差がつかないし、文章力もわかってもらえないだろう。
「そうだ、新聞記事風に書いてみよう」
ふとそんなふうに思いつくと、なんだか楽しくなってきた。まだ新聞記事は書いたことがなかったが、まるで記者が社長にインタビューをして書いたように、私はそれを「記事」にした。

その後、一人ずつ面接があり、履歴書をなぞりながらいくつか質問をされたが、社長と人事担当者から「フリーランスでの契約をご希望なんですよね。うちはそういうスタイルは望んでいないんです。今回は社員を募集していますので、申し訳ありません」とはっきり断られた。そりゃ、そうだ。
他の人より短時間で面接は終わった。

それでも私は満足していた。
いい話を聞けた。いい記事が書けた。なんて、なんて楽しい時間だったんだろう。人の想いを書くって、なんて素敵なんだろう。
夢中になって書いていた時の高揚感がまだ残っている。思い出すだけで涙が出そうだ。
初めて世の中のことをもっと知りたいとも思った。
いろんな企業のことを知りたい。そこで働くいろんな人の想いを書きたい。そのためにもっとちゃんと勉強しよう。今日は本当にいい出会いだった。心を入れ替えてまた営業を頑張ろう。そう思いながら帰った。
新たな目標を見つけて、久しぶりに清々しい気持ちだった。

だから、数日後、「あなたのフリーランスという要望をのみますので、うちに来てください」と電話がかかってきた時は、うれしいというよりも驚きのほうが強かった。
信じられず、電話口で興奮している私に、人事担当者は「他のスタッフとの顔合わせがあるから来てください」と日時を告げた。私を合わせて4人採用した、とのことだった。

そして、後日。
顔合わせの日、言われた通り会社の会議室に行くと、新入りは私が一番乗りで、会議室には社長だけが座っていた。
「よろしくお願いします。あの、あの……、でも私、面接ではフリーでやるのは無理だと言われたんですが……」と疑問に思っていたことを尋ねると、社長は私と資料を見比べ、それからこう言った。

「あなたのフリーという条件をのんだのはね、あの日、50人以上が試験を受けたけど、あなたの文章がピカイチやったから」

私は「ありがとうございます」と、深く頭を下げながら、目の奥が熱くなるのをこらえるのに必死だった。

この時、「まだ書いていていいんだよ」と神様に許された気がした。
それが何よりも嬉しかったのだ。
私は、まだ、書くことをあきらめなくていいんだと、そのことにホッとしていた。

これが、私が生まれて初めて自分の力で「書く仕事」を得た瞬間だった。

ちなみに、この日からちょうど10年間、フリー契約で社内報制作の仕事をさせてもらった。
ここで私は「企画・取材・ライティング・レイアウト・校正」などの経験を積ませてもらい、同時に社会人が最初に学ぶべきビジネスマナーなども見よう見まねで身につけることができた。
一人だけフリーランスだったので、社員と同じことを要求できず、今思えばまわりの人はやりにくかっただろうと思う。
だが、「取材して書く力」だけは皆が認めてくれ、私も仕事だけはきちんとやりあげた。もともと真面目で責任感はあるので、仕事の内容でダメ出しをされることはなかった。

その頃、私は「キャリアがキャリアを生む」とよく言っていたが、その言葉通り、1つ実績ができれば、次の仕事につながり、それが実績となってまた次の仕事につながっていった。
人との縁にも恵まれ、社内報と並行して新たなクライアントとも関係を築くことができ、新聞や雑誌、フリーペーパー、WEBサイト、パンフレットなど、仕事の幅もどんどん広がっていった。

◆その仕事を続けられる理由は何ですか?


気がつけば、ライターになって27年が経つ。
さすがに50歳を超えれば性格も丸くなり、ある程度の社会性も身につき、初対面の人に「優しそう」「穏やかそう」とまで言われるようになった。
尾崎豊かぶれの、夜の校舎窓ガラス壊してまわりそうな(壊したことはない)、あの頃の「鉄を食うオオカミ」に憧れていた自分からは、ほど遠い印象のようだ。
ただし、夫は私の本性を知っているので、出会った当初は「この、誰にでも噛みつく野良犬がぁ~!!」と怒られたこともあったし、たぶん今もそう思っている。

誰にでも噛みつく野良犬だった私を変えてくれたのは、時間や重ねた年齢のおかげだけではないと思う。
これまで出会ってきた多くの人たちのおかげだ。
ちょっとしたコメントをとるようなインタビューも含めれば、これまでに3000~4000人くらいは話を聞く機会があった。
その人たちと特別に仲良くなったり、何かを諭されたりしたわけではない。
ただ、いろいろな立場や環境の人たちの話を聞き、仕事への姿勢や想い、その生き様を聞かせてもらえたことで、自然に多くのことを学んでいったのだと思う。
ライターの仕事を通して、人生の「師」のような人たちに大勢出会えたのだ。取材相手だけでなく、クライアント、カメラマンやデザイナーなどのクリエイター仲間も、皆が自分にはないものを持ち、尊敬できるところが何かあり、私はそれをまねることで少しずつ成長していった。(とりあえず噛みつかなくなった)

たくさんの人に取材してきたが、今でもよく思い出すのは、最初に始めた社内報の案件を広げ、カメラ屋をチェーン展開する某企業の社内報をスタートした時のことだ。
その企業が創業50周年を迎えるため、入社第一号社員から順番に、在籍している社員たち(その多くがすでに役員クラス)に当時の思い出話を聞いていき、「人が語る社史」として社内報に連載することになった。

初回は第一号社員の方。中学を出てすぐに田舎から集団就職のような形で東京へ出てきて、その会社に入社したとのこと。だから20年以上前の取材当時で65歳くらいだったと思う。すでに定年を迎えて、契約で店舗に入っていたと記憶する。

私はその方が勤めている店舗を訪れ、接客の合間に取材を行った。
戦後まだ間もない頃の集団就職のこと。子ども同然だったその人が東京でどうやって商いの知識をつけていったのか。今は亡きお世話になった会長がどれほど素晴らしい人だったのか。仕事のやりがいや決して楽しいことばかりではなかった50年という年月……。
興味深い話をじっくりと聞いた後、私はずっと気になっていたことを尋ねてみた。

「どうして50年もこの仕事を続けてこられたんですか?」

すると、その方は静かにこう言われた。

「それは、この仕事を愛していたからでしょうね」

そして、話をする時に見せてくれていた会長の写真の入った額を、布で優しく丁寧に拭いて戸棚にしまわれた。
その動作がなんとも清らかで愛情深く、私の目に焼き付いた。

あの時、私はまだ20代。帰りの電車の中でとても興奮していた。なんだかものすごく貴重な話を聞かせてもらった気がしていたからだ。
生きていくためにはお金を稼がなければならない。それが「仕事」というものだ。第一号社員の方も、戦後生きるために、生活のために働き始めたのは確かだ。ただ、その仕事を愛することができたなら、人は50年でも同じ仕事を飽きることなく誇りを持って続けることができるのだと知った。
背筋の伸びた凛とした姿、優しく穏やかな話し方から、常に愛を持って仕事をしてきたその人の生き様を垣間見られたような気がした。

ありがたく、とても幸せな気持ちだった。また、果たして自分は50年もの間、ライターという仕事を続けることができるだろうかとも考えた。
スタートが遅いから50年は無理かもしれないが、せめてあの人と同じように65歳まで続けられたとしたら――。

その時、誰かに今日私がしたのと同じ質問をぶつけられたら、絶対にこう答えられるようになっていたいと思った。
「この仕事を愛していたからでしょうね」と。

少なくとも今は、ライターという仕事が大好きだ。特にさまざまな業界の「働く人たち」に取材することが多く、それがとても楽しい。
作家にはなれなかったけれど、ライターとして「自分のペンでごはんを食べて生きていく」ことは叶った。
ありがたいことに、何年やってもこの仕事は面白い。魅力がずっと褪せない。これが私の天職なんだとも思う。

そして、時々――、本当に時々ではあるけれど、
「あなたに書いてもらえてよかった」
「今までで一番私の思いを正確に表現してくれていた文章だった」
など、最高の賛辞をいただくことがある。

また、noteのような仕事以外の場で、私の書いたものを読んだ人から
「勇気をもらえました」
「私もがんばります」
「かおりさんの文章が大好きです」
「かおりさんの文章を読めて幸せです」
という、私にはもったいない言葉をコメントなどでいただくこともある。

そんな時、跳び上がりたいほどうれしいのは当然で、同時にまたなぜかホッとする。初めて自分の力で「書く仕事」を得られたあの日のように、何者かに許された気持ちになる。
私は、まだ、書いていていいんだ、と。
そして、おこがましいとは思いつつ、少しだけ「誰かの暗い足もとを照らすこと」ができているような気がするのだ。

できることなら、毎日泣いてばかりで生きるのがしんどいと思っていた小学生の自分に言ってやりたい。
「書き続けてね。それが、あなたの生きる意味になるよ。あなたを生かしてくれるよ。仕事にすれば、あなたが伝えたい想いは無限に広がっていくよ。ライターって、そんな素晴らしい仕事なんだよ」

書きたくて書きたくて、書いていればそれだけで幸せだった。
自分自身が言葉や本に救われてきたから、今度は自分の書いたものが誰かの暗い足もとを照らす光になれたらと、そう願い続けてきた。
そんなことを思うだけで涙が出そうになるくらい、書くことに囚われた人生だった。

もう「書くこと」を仕事にして27年。
いや、まだ27年だ。50年には程遠い。

「まだ書き続けられるよな?」と自分自身に確かめる。
もう一人の自分が自信を持ってこう答えてくれる。
「大丈夫。才能はないけど、情熱はたんとあるから」
この情熱がある限り、私はこれが自分の生きる意味だと信じて書き続ける。
誰かの暗い足もとを少しでも明るく照らせることを願いながら。

(9141文字)


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