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パンの匂いには、あの頃の幸せがぎゅうっと詰まっている。

これは2021年に一度アップした記事に、最近の話を加えて編集したものです。なので、前半は読んだ覚えがある人もいるかもしれません。ご了承ください。

子供の頃、母はよく家でパンを焼いてくれた。私が小学生低学年の頃のことだ。

当時、母は友達に誘われて「ベターホーム」のパン作り教室に通っていた。大きなオーブンも家にやってきた。今のように電子レンジやトースターにもなるような多機能のものではない。温度と時間を設定して「焼く」ことしかできないオーブンだ。

母はテーブルに木製の台を広げ、小麦粉やバター、水、イーストなどをその台の上でひとつにまとめていく。ある程度まとまったら、バーン、バーンと結構大きな音を響かせながら、勢いよく台に叩きつける。やってみたいが、これは力仕事なので私はそばでじっと見ているだけ。

クリーム色の弾力のある丸い塊になったら、ボウルに入れてラップをかけ、しばらく発酵させる。冬はこたつを出していたので、こたつの中に入れておくこともあった。

1.5倍くらいに膨らんだ生地の空気を抜き、今度は綿棒で平たく伸ばしていく。この頃になると私はテーブルに身を乗り出し、まだかまだかと待っている。丸く伸ばしたら、母はそれをピザのように8等分に切る。小さな三角形になった生地をそれぞれさらに薄く綿棒で伸ばしたら、ようやく私の出番だ。
母が「はい」と渡してくれた小さく薄い三角形を、幅が広いほうからくるくると巻いていく。これでバターロールになるのだ。
「次は好きなもの作っていい?」
「いいわよ」
母の了承を得て、私はまた小さな生地をもらい、今度は粘土のように丸くしたりちぎったりして、うさぎやカメなどを形作る。

そうやって母と一緒に成形したものをオーブン皿に並べ、低温のオーブンかこたつの中でもう一度発酵させる。また少し大きく膨らんだ生地に卵黄を刷毛で塗り、予熱したオーブンへ。

パンが焼けるのを待つ時間も好きだった。オーブンは高い場所に置いてあったから、ダイニングの椅子を持って来てその上に乗り、オーブンのガラス扉をじっと見つめる。生地がさらに膨れてこんがりときつね色になっていくのは面白かった。それに、その頃になるともう家中にパンの焼ける香ばしい匂いが充満し始める。「おいしそうな匂い!!」もう待ちきれない。

チン!!

パンが焼けると、母がオーブン皿を取り出して、網の上にパンを並べていく。さっき塗った卵黄がつやつやと光っている。母が作ったバターロールは美しいが、私の作ったものは少しいびつ。絵心がないので、うさぎやカメの動物シリーズも全然可愛くない。それでも嬉しくて、まだアツアツのパンにすぐ手を伸ばした。

姉もやってきて、「おいしそう!」ときれいなバターロールを選ぶ。二人ともアツアツのパンを両手の指先で何度も掴んだり離したりして、ヤケドしそうなのに、もう我慢できずにかぶりつく。外はカリっと、中はふわっと。それにこの匂い!パンをかじるたびに香ばしさが味わいに変化して口の中に広がっていく。香りごと呑み込んでいるみたいだ。

当時飼っていた桜文鳥のチルちゃんもこの焼き立てのパンが大好きで、中の柔らかい部分をちぎってあげると、普段のエサを食べる時とはまったく違うテンションと勢いでつついていた。私は鳥でもこのおいしさがわかるんだなぁと思っていた。「おいしいねぇ」と焼きたてのパンをみんなで頬張る、とても幸せな記憶だ。

母がパンを焼かなくなったのは、私が小学校高学年になる頃だろうか。私が7歳の頃から母は火災保険会社で事務の仕事を始めた。朝早く家を出て仕事に行き、夕方帰宅すると家事に追われ、いつも疲れた顔をしていた。父は夜中にならないと帰ってこなかった。
もっと前からなんとなくうちは他の家庭とは違うような気がしていた。外食もしないし、旅行もしない。家族団らんもない。
今では共働きなんて当たり前の時代だが、私が小学生の頃はまだ母親がフルタイムで働いている家は少なかった。家のカギを持たされ、学校から帰ると自分でカギを開けて入るので「カギっ子」と一般に呼ばれていたくらいだ。

私は淋しかったんだろうな、と思う。もっと家族で笑い合って子供時代を過ごしてみたかったんだ、たぶん。
だからだろうか、今でもパンの焼ける匂いをかぐと、ちょっとだけせつなくなる。あれは、幸せがぎゅうっと凝縮されたような、そんな匂いだと思うから。
「お母さん、パン作って~!」と無邪気に頼んで、一緒にパンを焼く。あの楽しさ、おいしさは格別だったから。

最近、またパンの焼ける匂いで目が覚めることが増えた。
食が細くなってしまった私だが、パンなら朝から食べられるので、ホームベーカリーでパンを焼くことにしたのだ。
家の近くにおいしいパン屋さんはないし、スーパーやコンビニのパンはいろいろな添加物が気になる。自分で作るのがいいだろうと思い、「ホームベーカリーを買う」と言ったら、夫が買ってくれた。

26歳で一人暮らしをした時もホームベーカリーを持っていた。当時は「通販生活」で案内されていた質の良いものを選んで購入したが、四半世紀も前のものだ。こねる時にドッタンバッタンと何事かと思うほど大きな音が出るし、滅多に使わなくなったので、10年以上前に廃棄してしまっていた。

今回購入したのはパナソニックのちょっといいやつ。シロカなど安い製品もあったが、クチコミを読むとやはり「パナソニックがいい」という意見が多かったので、値段は2倍以上したがそれにした。
生食パンで有名な「乃が美」が監修したレシピもついていて、「おうち乃が美」まで楽しめるという。

実際使ってみると、四半世紀前に買ったものとは違い、とにかく静か。ほとんど音が気にならない。材料を入れて、メニューを選んでタイマーをセットするだけで、朝から焼き立てパンが食べられる。
今気に入っているのは「フランスパン」モード。フランスパンといっても、形は山形食パンと同じだが、外はカリっと、中はもちっとしている。これがすごくおいしい。

朝、布団の中でパンの焼ける匂いがしてくると、それだけで心浮き立つ。
ああ、やっぱりパンの匂いは幸せの匂いだ、と思う。
ちょっとだけせつなくなるけれど、今は幸せのほうが大きい。
「焼き立て、おいしいね」と笑って一緒に食べてくれる家族ができたからだろう。

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