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「頑張ったんだから、いいんだ」と言い聞かせて家を出たあの日。

私がひとり暮らしを始めたのは、26歳の秋だった。
大学を卒業後、塾の講師をしながらフリーライターになり、1年経って、ようやく仕事がうまくまわり始めていた。

お金の心配がなくなると、私はすぐに家を出ることにした。
子供の頃から、実家を出て「自分の家」を持つことが夢だったからだ。もちろん最初は賃貸でいい。だけど、そこは自分が愛情をそそげるものだけで固めた、私だけの城にする。そう決めていた。

ひとり暮らしをしたいと両親に告げると、父はあまり良い顔をしなかったが、母は賛成してくれた。
そして、まるで自分の家を作るように、あれこれ世話を焼こうとした。ありがたかったが、それでは「自分の家」の意味がないので断り、私はせっせと一人で好きなものを買いそろえていった。

何よりこだわったのは、食器だ。
私は子供の頃からとにかく「器」が大好きで、それも雑貨屋さんに置いてあるような、いわゆる「可愛いもの」ではなく、名のある作家さんがつくった本格的な器ばかりを好んだ。

特に、母の影響で柳宗悦の「民藝」の世界にはまりこんでいたので、民藝の流れを汲むような作家さんのものが好きだった。
それは、20代の女性がひとり暮らしをする時に最初にそろえるようなタイプのものではなかったが、かまわなかった。私は何年も前からずっと指をくわえて「見ているだけ」で、いつか自分のものにしたいと夢見ていたものをあれこれと買い集めた。食器類だけで20万円くらいかかったと記憶する。

調理道具にもこだわった。
職人が叩いて手造りした鉄の中華鍋、プロの料理人が持つレベルの雪平鍋、電熱コイルが底に入った銅製のケトル、四万十川の檜の一枚板のまな板など、「安かろう悪かろう」とか「とりあえず」ではなく、「良いものを一生」のつもりで買いそろえたのだ。
ちなみに、四半世紀近く経つが、上の4つで言えば、まな板以外は今も現役だ。(今も檜の一枚板のまな板だが、3代目)そう考えれば、決して高い買い物ではなかったと思う。

そして、肝心の住む場所は、大阪市内にした。
その頃に通っていた制作会社の事務所が梅田で、塾は淡路。私の実家は大阪府内といっても山と川しかない田舎町だったので、仕事場に通いやすい場所を選んだ。
駅から徒歩5分、築5年程度のきれいなマンションを見つけ、1Kの部屋を契約した。
決め手は、「キッチンが広くて窓があること」「お風呂とトイレがセパレート」「洗濯機置場が室内(ベランダではない)」「収納が多いこと」。

今回、この記事を書くために探してみたら、不動産会社のサイトにこの物件が出ていた。

まったく同じ間取り。初めての私の城だ!

当時、家賃は71000円だった。
今見たら、46000円になっていて、思わず「え~?」と声をあげてしまったが、よく考えてみれば当たり前。あれから24年以上経つのだ。「築29年」と書かれているのを見て、時の流れを感じた。

決め手のポイントには入れていなかったが、住んでみてよかったのは、玄関がわりと広くて、備え付けの靴箱があったことだ。
この靴箱の上に、いつも花を飾っていた。
仕事帰りに大阪の駅ビルの地下にあるディスカウント花屋に寄り、組み合わせを考えながら花を選び、好きな花瓶に生けて靴箱の上に置く。
家に帰った時、玄関を開けてまず花が目に入るということが、あの頃のハードワークだった私の慰めだった。

こうして気に入った部屋を見つけ、愛すべきものたちを買い集めて運び入れ、私の城は完成した。

あれは確か母と一緒にカーテンの生地を見に行った帰りだったと思う。
歩きながら「引っ越し楽しみだね」などと話していた時、私はふと「なんか怖いねん」と言った。
母は「夢が叶っていくから?」と聞いた。
そうだ、あの頃の私は、「自分は幸せになることはない」「なってはいけない人間だ」と心の底から信じていた。そういう思考回路から逃れられない人生を歩んでいた。
だから、ライターになるという夢が叶い、自分で書いてお金を稼げるようになっただけでも十分なのに、家を出て自分の好きなものに囲まれた城を持つという夢がもうすぐ現実になるということに、喜びと同じくらい恐怖を感じていたのだ。

私なんかがこんなにうまくいくはずがない。
ひとつうまくいったら、また別の不幸がきっとやって来る……。
そんなふうに思っていた。

母の問いかけに、泣きそうな顔でうなずくと、母は力強くこう言った。
「頑張ったんだから、いいのよ」

その言葉にはっとした。
そうか、頑張ったんだから、いいのか。
欲しかったものを手に入れてもいいのか。
好きなものに囲まれてもいいのか。
願いや夢が叶ってもいいのか。
私も幸せになっても、いいのか……。

夕暮れの中、泣き笑いの顔を見られないよう、まっすぐ前に顔を向けたまま歩いていたから、あの時の母の表情がどんなものだったかはわからない。
でも、きっと母も泣き笑いのような顔をしていたと思う。

26歳の秋、私は生まれて初めて家を出た。
あの部屋には4年半暮らした。
結局、山も空も見えない、騒音と人であふれた街の生活にはどうしても馴染めず、情緒不安定になり、育った田舎町に戻った。(山に帰りたい!と言うハイジの気持ちだった)
実家のそばの築30年の古いマンションを見つけ、今度はそこに住んだ。
極寒の部屋だったが、ベランダから見える田んぼと山にホッとして、少しずつ自分を取り戻していった。
その部屋にも4年半住んだ。合計9年間のひとり暮らしの後、結婚して、今度はふたり暮らしになった。

家は、愛情をもてるものであってほしい。
小さくてもいいから、帰った時に誰もいなくても「ただいま」とつい言ってしまうような、自分と心の通い合う家であってほしい。
ここにいたら、それだけで安心する。そんな場所であってほしい。
そう思って、住み慣れた町の山のほうに家を建てた。

ひとり暮らしをする時に、思い焦がれてようやく手にした器たちを、今も大切に食卓に並べていると、時々、あの頃のことを思い出す。
「頑張ったんだから、いいんだ」
何度もそう自分に言い聞かせながら過ごした、若い頃の未熟で不安定な私が今は愛しくもある。

ひとり暮らしには少し贅沢だった器たちが、今はしっくりと馴染む。私もそういう年齢になった。
初めてのひとり暮らしからもうすぐ25年。
だけど、あの好きなものを1つずつ買いそろえていった喜びや、「自分の城」を持てたうれしさは、今も忘れられない。

このエッセイは、メディアパルさんの【企画】に参加させていただきたくて書きました。期限ギリギリ!!(笑)


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