感想 『山姥切国広 単独行 -日本刀史』
本作はそもそもが「歴史」の、それも「諸説」を扱うという、非常にデリケートなテーマを抱えた昨今の刀ステにおける、「歴史」の再定義・再提示であったと捉えている。
无伝の亡霊としては、あの作品で提示された「諸説は歴史と認められるのか」という問いへのアンサーとも受け取った。
刀ステにおける「歴史」とは何か
刀ステにおける歴史の収束点であり、今作に登場する「三郎」こと織田信長はこのように主張している。
歴史とは、後の世で語られる「物語」のことである。
「物語」ゆえ、事実が何かを追い求める必要はない。事実も諸説も、後の世で語られている以上は等しく「歴史」なのである。何が正しくて何が間違っているかを詳らかにするものではなく、そのすべてを許容し思いを馳せるもの、それが歴史である、と。
登場する信長〝たち〟は、歴史の「諸説」の可視化であり擬人化であった。それら全ての物語を受け容れること、全てひっくるめて「織田信長」であると認めるということは、すなわち全ての諸説(≒放棄された世界≒朧)をも「歴史」として認めるということと同義なのだろう。
「思いを馳せる」とは
では、「思いを馳せる」とはどういうことなのだろうか。
作中では山姥切国広が様々な歴史上の人物に身を窶す。
そうして彼自身の視点から、その時々に起きた出来事を、その時の気持ちを、見つめ直している。
これは、歴史を再定義する作業であるといえるだろう。
己の五感を以てその人生を体験することにより、「自分が」彼らをどう捉えるか、「自分が」この出来事をどう解釈するか、自分を主軸に捉え直す練習とも取れる。
つまり「思いを馳せる」とは、自らを主軸として再定義する作業なのだ。「歴史」に「思いを馳せる」とは、「各々の物語を自分の目線で再定義すること」であるといえるだろう。
作中のキーワードとして、繰り返される言葉がある。
本質的に他者を知ること、他者を理解することは絶対にできない。「自分」は絶対に「他者」にはなり得ないからである。己と他者の間には、飛び越え難い断絶が横たわっている。知ろうとして追いかければ追いかけるほど、その断絶は実体を持ち、追い求めている「真実」からは遠ざかってゆく。
序盤の山姥切国広は、まさにこのジレンマに陥っていた。
誰かを「知りたい」「理解したい」と思うことは苦しい。なぜならそれは、他者の心を拠り所にしており、他者の内にあるものだけを「正解」としているからである。
だから、山姥切国広は苦しむ。彼は三日月宗近を救いたいと踠いているが、その感情の根底には、「三日月宗近を理解したい」「あいつに本当のことを問い質したい」「そのために強くなりたい」という願いがある。救いたい、問い質したいという気持が「朧」としての実態を持ってしまうほどに、三日月宗近だけが持つ「答え」を切望しているのだ。
この時の山姥切国広は、主軸がずっと「三日月宗近」のままなのだ。「三日月宗近が」何を考えているのか知りたい。「三日月宗近が」何者なのかを知りたい。「三日月宗近は」どうして自分を選んだのか、等々。三日月宗近の内面にしかないものを絶対の拠り所として、そこをゴールとしてがむしゃらに走っている。
だが、思いを馳せるとはそういうことではない。
たったひとつの、絶対的な答えを追い求めることではないのだ。
山姥切国広がそれを理解するのは、あの『悲伝』の再現の場である。
「三日月宗近」として「山姥切国広」と向き合うことにより、彼は三日月宗近の「心」に触れる。どうだ、と三郎に問われ「温かい」と言って涙を溢しながら、真っ青な狩衣に包まれた胸をかき抱く。(※1)そうしてようやく、己の迷いを断ち切るための一歩を踏み出そうと決意する。
彼が触れたのは当然、「本物の」三日月宗近の「心」ではない。山姥切国広自身が追体験をし、彼の目線で「あの時の三日月宗近」を捉え直した結果掴んだ、「もしかしたらそうだったかもしれない」三日月宗近の「心」である。
だが、それが本物か否か・正しい解釈か否かは問題ではない。
「史実」や「本物の気持ち」はそれを理解しようとする者の数だけ、無数に存在してしまうものである。それら全ての存在を認め、その上で「自分にはどう見えているのか」「自分はどう見るのか」を定義する、それが思いを馳せるということだからだ。
だからここでは、山姥切国広が掴んだその「心」が、三日月宗近が抱えていたそれと一致しているかどうかを確認することに意味はない。大切なのは山姥切国広自身が、「自分で」三日月宗近を再定義した、という事実なのだ。
「お前が描くあの男は何者なのか」
今一度、虚伝から幾度となく投げかけられてきた問いを思い出す。
何者かを知るとは、「お前は何者なのか」と本人に問い質すことではない。自分にとって何者なのかを知るということである。単独行を通し、山姥切国広はそのことを知る。
そして同時に、答えは既に出ていたことに気が付くのだ。三郎に「三日月宗近は仲間か?」と問われた時、山姥切国広はこう答える。(※2)
だからもう、山姥切国広は三日月宗近を救おうとは思わない。もう「お前は何者か」と問い質す必要はないからだ。自分にとっての三日月宗近が何者なのか、彼は既に知っている。そのことにようやく気が付いたのだから。
自己の再定義
そうして「相手が何者か」を知るということは、同時に「じぶんとは何者か」を知ることでもあったのだと思う。(※3)
三日月宗近が何者であるかを追う旅を通し、山姥切国広は他者や歴史上の出来事を再定義してゆく。そしてその作業を通し、他者を再定義する「自己」をもまた、見つめ直すことになったのだと思う。
まさしく、極修行の旅だ。
三日月宗近を「師であり仲間であり、かけがえのない友」とするならば、自分は何者なのか。
その答えも、山姥切国広は既に知っていた。
だから、山姥切国広は前を向く。刀剣男士としての使命を全うし、未来へと踏み出すために円環へと旅立つのだ。
太陽の物語
己の為すべきことを定めた後、皮肉だな、と山姥切国広は笑う。あんたを救うのをやめようと思った途端、あんたの背を追うことになるとは、と。
ひょっとすると、彼らはもう出会えないのかもしれない。同じ空に太陽と月が並ぶことがないように。(※4)
それでも、山姥切国広は円環を廻る。この先の道は、三日月宗近だけのためのものではないからだ。刀剣男士として、主と本丸の仲間を守るためのものである。彼が守りたい「本丸の仲間」の中には当然、三日月宗近も含まれる。
これは本能ではない。彼が、彼自身で決めたことなのだ。
山姥切国広の迷いは晴れ、手段と目的の捻れも、刀剣男士としての矛盾もなくなった。自分が真に何をすべきなのかを知ったのだ。
出立を決意した時、山姥切国広はこの上なく晴れやかな表情だった。
眩しすぎて、けれど目を逸らすこともできない、とても美しい表情だった。思わず、いってらっしゃい山姥切国広、と両の手を握り締めてしまうほどに。
ここから先の山姥切国広はあの、何もかもを許容した、吹っ切れたような顔で円環を巡るのだろう。決して挫けることのない、本丸の太陽として。
長くなっちゃったので後半は後日。
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