片腕(左腕より前)

あたしは今、男の左腕と暮らしている。
どうやらあたしだけに見えて、他の誰にも見えないらしい。
太く無骨ではあるけど、若く男らしい腕だ。
剥き出しの男の腕は、恋しさ愛しさを募らせる厄介な部位ではあるが、まだまだ朝晩の冷え込みは厳しい。あたしは叔父の形見の、叔父が好んで袖をとおした嵐絞りの浴衣をほどき、袖付けの部分を縫い合わせ袋状にし、男の腕を袖口にとおしてみた。
腕もおさまりがよいのか、静かにそこに横たわっている。

台所で花瓶の水をかえていると、流し台のふちに指をつき、嵐絞りの浴衣に包まれた左腕だけの姿なのに、なぜか隣に佇む男の姿が想像できて、男が傍にいつもいてくれるようで、あたしの心はとても和む。

…それでも、あたしはまだまだ不安定で、いつもいつも気分の落差が激しく、男の腕にすがって泣いてみたり、当たり散らしてみたり、そんな時も男の腕は私の髪を撫で、頬をつたう涙をぬぐい、頭を優しくぽんぽんしたり、頬を軽くぺしぺししたり、それでもダメならヤケクソで鼻をつまんだりもする。根が単純にできてるあたしは、それだけで笑い転げ、気持ちが落ち着けば眠くなり、男の指に自分の右手を絡ませうつらうつらと添い寝をねだる。時折思い出して、二回ほど合図のように男の手を握ると、男も遅れて二度ほど強く私の手を握かえす。
一人じゃない、あたしを分かってくれる人…それがたとえ左腕だけの男だとしても、今のあたしにはかけがえのない存在だ。

…それでも、あたしは寂しくなってしまう。毎日どろっどろになるまで甘やかされ大事にされようが、やはりそれはただの左腕だ。
深夜、ふと目を覚まし、傍で静かに眠り続ける男の手に自分の乳房を触れさせる。
びくん、そう驚いた腕はすぐに私を引き剥がし、寝室から抜け出し居間のソファでブランケットの中に潜り込んでは、いくら謝ろうがこうなると許してくれない。精神的には支えてはくれるが都合のよい慰み者の玩具の真似事はしてくれないのだ。おとなしく眠れば、朝になればなんらかわりなく男の左腕との日常がある。
あたしはそんな夜はしょんぼりと一人で寝るはめになるのだ。それが悔しい。

今朝、起きてカーテンを開け、朝日を浴びていると左腕の気配がないことに気付いた。
ベットの下にも、ソファにも出窓にも男の左腕がないのだ。
あたしは頭が混乱して取り乱して、男に電話した。あなたの左腕がどこを探してもいないのよ、そう泣いた。
受話器のむこう「ここにいるよ、帰ってきてる。ないとたいへんなことになっちゃうだろう?」
嗚呼、そうなのか。お家に帰ってるんだ。

「気をつけて、あたたかくしておいで、待ってるよ。」

あたしは今日着ていく服を左腕と相談しながら決めようと思ってたのに、ひとりぼっちになってしまい何着て行こうかとても悩む。
こんなことなら昨晩のうちに決めとけばよかったねと、中身が空っぽの嵐絞りの袖に声をかけ、ひとつ小さくため息をついて丁寧にそれをたたんだ。

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