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思いついたことを言葉にしてみる #08 情熱さがし

気づけば還暦近い私の年齢、当たり前の話だけど、周りは私より年下の人ばかりである。すでに肉親はなく、職場においては同僚も管理者も年下ばかり。

何故、こんな思索にふけるか、勤めている会社の定年が延長になったことに起因する。正社員の定年が60歳から65歳に延長、前触れもなく、いきなり掲示物での通知。それを目にして思わず変な声が出た。(すぐあとに個別の文書通知があり)

60歳定年で社会人生活の第一線から少しだけ身を引いて、収入は減少するけれど、週4日程度の勤務で、余暇にすることをいろいろ考えていた。おそらく加齢による気力の衰えも「60歳まではがんばる」という節目を見据え奮起していた。そこから先の世界がとても愉快そうに見えていたからだ。

それが今と同じ労働条件、5年の先延ばし。心の中で何かが折れた。まだ働かなきゃいかんのか。5年後の体力、気力とも想像がつかない、いやもう生きていないかも。久しぶり、物憂げな気持ちが充満した。それでも朝はまたやってくる。昨日と同じような、生活が続いていく。

そんなおり、読んでいた本に「旦那芸」のことが記されていた。

「ご隠居の芸事習い」という印象はある。その本では、事を成した大人(タイジン)が芸事を習うのは、漫然としてしまう老後生活において、身銭を切ってまでも叱ってくれる師匠を求めているのではないか、ということ。なるほど。

「叱られた」という記憶はかなり色褪せしつつある。今では私生活でも仕事でも叱られたこともないが、それは私の年齢などに対して気遣いされていることなのかしら。叱られそうなことは気づかずにしている気がするけれど。

幸いにも、私が社会的に属している集団(会社や親しいと勝手に思っている友人達)には、年功序列の余韻が残っているようで、相手から先に挨拶されたり、席を譲られたりなどは当たり前に近い感触で遭遇する。

歳をとることは、叱られなくなること。どれだけ機会が減ろうが、私は叱られたくない。旦那芸の仕組みは理解できるけれど、叱られても修得したい芸事は今のところ心当たりもない。

そんな思考を続けていくうちに、ふと気づいたことは、定年後に何をするか、具体的なことは何も決めていなかったこと。晴耕雨読的なことで何かしようか、という程度。そこから、働かなくて済む大きな言い訳が先延ばしされたことによる、やるせなさが、なかなか上がらないテンションの原因っぽく思えてきた。

待てよ。何も決めてないなら、ちゃんと考えて決めてみよう、意外にも健全なひらめきに、定年延長を端に発する不安定な心模様も収束しつつ。

と、考え始めてひと月あまり、進歩はなくむしろ退去しているような感じだ。

大人を過ぎて順調に老境へ入っているのか、いろんなことが思い浮かんでは、ひとりで論破しては消えていく。人並み(比べようがないけれど)に分別を持っているようで、できないことばかりが先に思い付く。

じっくり考えたくなり、散歩がてら大きな図書館へ入ってみる。旦那芸の書かれた本には別項で、図書館の効用も記してあった。要約すると、

自身の無知を可視化できる場所

まったくもって、完敗。迷える子羊はこういうことか、知らんけど。山高く並べられた書架は私の知らない世界。無限の広がり。ふと正気に戻ったような。

できることって、なんだろう。まず思いついたのは文章を書く。生活の糧には全然ならないけれど、苦にならないことはたしかだ。生活の糧にすると苦しくなるのかな。

情熱とまではいかないけれど、そこそこできることを続けていくことで、新しい情熱が持てそうなモノとの出会いがあるかも。この図書館で。貸出しの手続きは紙に名前を書いて、カードの裏の署名も自筆。このアナログ感はなんだかホッとした。わからないけれど。

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