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思いついたことを言葉にしてみる #09 ほどよい限度

先の休日、朝から所用があり、電車に乗って出かけたのであるが、手持ちのバックに札入れが入っていない。駅の改札はスマホSuicaだったので気づかず、現金は小銭入れの数百円のみ。取りに戻る時間もない。Suicaのチャージ額を確認しようとスマホ画面に着信履歴、昨夜立ち寄った店の名が。その店に札入れを忘れてきたことに想像が及ぶ。あとで電話確認することにして。まずはチャージ金額を少し潤沢にしておく。

その日は手持ちの小銭だけで複数の用事を無事に済ませることができた。残念だったのは久しぶり訪れたかった店は電子マネーが使えないことくらい。恐るべき電子マネー。現金を持たずとも生活できること。小憎らしい残高不足のアナウンス。まあいいか、のノリで浪費してしまうほど怖さは薄い。財布の中身やチャージ残高がその日の限度というタガがないと不安なのだ。生まれながらの臆病者は、自分の限度を知って安心する。

限度ってなんだろう、とふと思いつく。なぜ限度を知ると安心するのだろう。真っ先に思い出すことがある。作家、坂口安吾。『不良少年とキリスト』の最後の一行。

『学問は限度の発見だ。私は、そのために戦う』

この一文。作品内容は触れないが、この最後の一行の言葉を紡ぐために、様々な言葉が書き綴られた気がしたのである。意味はぼんやりしているけど、『限度』を発見することは、より良く生きていく上で必要なこと、そんな印象を持ち続けていた。歳を重ねながら身に付けた能力も積み重なったり入れ替わったりして、限度の範囲も変化していくのかなという感じ。

だから限度の範囲内で起きたことについて、何らかの方法で完結できる自信がある。その裏付けとしては、自分の身体能力の範囲内。ゆえに限度を知って安心する。

誰よりも先に、誰よりも前へ、は人間の身体能力の範囲で競われるから、喜怒哀楽の感情はリアルである。私も自身の肉体で受ける様々な事象でいろんな思いや感情が動いたりする。だから自身の肉体をはるかに超えるようなモノについては、ピンとこない、というかまず近付かない。臆病者だから。

すべての限度を超えることに懐疑的ではない。ただ自分に肉体を基準に考えるクセがついているので、私の想像を凌駕する方には、がんばってください、とお声がけするだけだ。

常日頃、自身の限度と対峙して、思い煩うのは、まことにしんどい人生であろうと。その限度を超えてみたい、と思わない限り、放っていても困ることはない。今の自分の限度を知っていれば、これはすごく幸せなことだと思う。

今回の札入れ忘れて外出したとき、スマホSuicaの恩恵は露頭に迷うことはないことでじゅうぶん元をとった気がした。慎ましいけれど、ほどよい程度の幸せ。そう、居心地のよいちょうど良さ。

そんな居心地の良さを探して、追っかけて、何かと出会って、何かが変わったり、自分が変わったり。私はどうなるのかな。何も変わらない気がする。残り時間も限度があるし。でも明るい方へは進んでいきたい、まあまあな明るさで。



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