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布団から出たら【掌編小説】

 布団から出たら、そこは草原だった。乾いた砂地の上に、丈の短い青草がちらちらと茂っていた。足元から長く続いている白い道の向こうには、絵の具の青を塗りたくったような、なんとも曖昧な空が広がっていた。
 ついさっきまで、温かな布団の中にいたはずだった。疲れた体を猫のように丸め、ぼんやりスマホを眺めていたら、いつの間にかうとうと眠くなって。普段となにも変わらない、ありふれた夜だった。だからこれは、夢を見ているだけなのだろう。
 はぁ、と、声ともため息ともつかぬものが唇から零れ落ちたそのとき、僕の少し前を歩いていた生き物が、ふと足を止めてこちらを振り返った。枯れ草のような茶色の毛に覆われた、四つ足の動物。それは驢馬だった。野兎によく似た長い耳が、乾いた風に吹かれながら揺れている。

 ただっぴろい草原の真ん中で、くたびれた布団を右腕に抱えたまま立ち尽くす僕の傍らに、驢馬は暢気な足取りでぱかぱか蹄を響かせながら近づいてくると、ブヒンとひとつ、鼻を鳴らした。こちらを見上げる大きな瞳は、もの言いたげに濡れている。腹を空かせているのか、撫でてくれとでも言うのだろうか。黒々と夜空のように光りながら、静かに僕の心を覗いている。驢馬を間近で見るのは初めてだというのに、まるで、もうずっと長いこと一緒に旅をしてきた、古き良き相棒のようだった。僕は彼に触れてみたくなり、白い鼻に手を伸ばした。海綿のようにふよふよと柔らかく、生温かい皮膚が、指先に触れる。夢の中にしては生々しすぎるその感触に、僕は思わずぎょっとして飛び上がり、じりじりと後退ると、ぎゅっと目を瞑ったまま頭から布団を被ってしまった。

 僕はいま、寝室のベッドの中にいるはずなのだ。青臭い匂いのする茶色の毛並みの相棒などいたことは無いし、ここは断じて草原などではない。そうだ、このまま何も見なかったことにして、もう一度寝てしまおう。そうすれば、きっとすべて元通りになるに違いない。おそらくは唯一それしかないであろう解決策に縋るような思いで、固く目を閉じ、息を殺した。
 
 耳元で、ひゅうひゅうと乾いた風の音が聞こえる。四角い歯列によってもぎったばかりの青草の匂いが、すぐそこにあるのを感じる。ふうふうと温かく湿った見知らぬ動物の息づかいが、僕の頬を撫でるように近づいてくる。




 初めて参加させていただきました。
#シロクマ文芸部
#布団から

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