見出し画像

ミルクセーキの味は。

朝の連続テレビ小説で、学生たちが喫茶店でミルクセーキを飲むシーンがあった。うまい、うまいと、おかわりしながら飲み干す詰襟男子を見ながら、なつかしいその味を思い出した。卵と砂糖と牛乳、そして少量のバニラエッセンス。昔はどこの喫茶店でもメニューの上位に並んでいたこの飲み物、私にとっては、忘れられぬ『ご褒美の味』だ。

4歳のころ、近所の元音楽教師のもとでヴァイオリンを習い始め、2年ほど勉強したのち、市内の大きな音楽教室に移ることになった。私は週一回、母と一緒に電車を乗り継ぎながら、一時間半くらいかけて教室に通った。母は楽譜は読めないけれど、音楽を聴くのが大好きで、レッスンのある土曜の午後を楽しみにしていたらしい。先生から「今の曲はもう卒業。次の曲を弾いてきてね。」と言ってもらえるたびに、駅前にある百貨店の小さなスタンドカフェに私を連れていき、ミルクセーキを注文してくれた。私がカウンターの隅でミルクセーキを飲んでいる間に、食品売り場でパンやハムや夕飯の総菜のコロッケを買ってくる。ミルクセーキを飲み終わると、買い物袋を二人で抱えながら電車に乗って帰るというのが、私たちの習慣だった。

4年生になったころ、父に病が見つかり、頻繁に入退院を繰り返すようになった。母は仕事が忙しくなり、楽しみにしていたレッスンについて行くことが難しくなった。私は楽器を背中に括り付けて自転車で駅へいき、電車を乗り継ぎながら、一人でレッスンに通った。一人で行くようになっても、ひとつ曲を卒業することができた日には、母とそうしていたように百貨店の地下に寄り、スタンドカフェでミルクセーキを頼んだ。まだ小学生の女の子がカフェに一人でいることに顔をしかめる大人も居たけれど、店主は私の顔を覚えていてくれて、いつもカウンターの隅の目立たないところに座らせてくれた。卵と牛乳、あまったるいバニラの香り。その匂いに包まれると、頑張って練習した自分への誇らしさが、小さな水溜まりのように胸にあふれ、母の嬉しそうな顔が思い出された。中学生になっても通い続けたそのカフェは、高校に合格したころ、百貨店の改装にあわせて取り壊された。

そういえば、もう何十年も飲んでいなかった味が急に恋しくなった。昔は自分でも時々作っていたはずだと思い出す。夜、次女が風呂からあがるタイミングを見計らって、冷蔵庫から卵を取り出した。ちょうど、休校中の長女がケーキを焼くために買ったバニラエッセンスもある。ひとつ、コンコンと卵を割り始めると、次女が好奇心満々で覗きにやってきた。ふたつ、みっつ、オレンジ色の卵黄がボールの中で踊っている。砂糖は少し控えめに、牛乳はたっぷりと。お気に入りのグラスを取り出して、氷を浮かべる。なつかしい甘い香りがふんわりと漂った。長女が二階から降りてくる足音が聞こえる。ミルクセーキ、みんなで飲もうよ。今日も一日、おだやかないつもの日常を過ごせたご褒美に。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?