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臨死体験と事象の地平面

概要:死後の世界あるいは集合的無意識に関する量子情報論的枠組みとして銀糸仮説(silver cord hypothesis)を提案する。銀糸仮説はブラックホールにおける事象の地平面と脳が量子もつれで繋がっているという予想である。銀糸仮説はホログラフィー原理を前提としており、観測可能な物理空間が事象の地平面における量子計算の副産物であると捉える一種のシミュレーション仮説でもある。これはまた映画マトリックス、プラトンの洞窟の比喩や仏教的無常観の素粒子論的焼き直しでもある。

蘇生技術の発展により臨死体験(NED)を経験する人が世界中で数百万人にも達している。また瞑想を通して臨死体験(MI-NDE)に入れる宗教家というのもいるらしく、DMTやケタミンなどの幻覚剤による体験内容と比較されている。これらのNDE体験者の証言は人種・国籍・文化的背景を超えて多くの部分で共通しており大変興味深い。またチベット死者の書やエジプト死者の書との共通項も見出される事から時代をも超越した人類にとって普遍的な原体験であるという事も言えそうである。論文の中ではNDEと向精神薬の使用によってもたらされる幻覚とを明確に線引きするためのフローチャートを示し、スコアが7以上でないとNDEと認めないとしている。NDEとMI-NDEに質的な違いがある事もまた興味深い。特に一般人にとってNDEがたった1回の体験であるのに対して瞑想の熟達者はこれを何度でも再現出来る。臨床のNDE(C-NDE)では人間の価値が富や名声ではく徳や愛のみによって決まる事を確信したと述べられている一方で、MI-NDEの体験者はそれらも含めて全てが幻想なのでその段階に長い時間留まってはならないと言っている事も面白い。C-NDEが体験そのもに圧倒されているのに対し、MI-NDEはこの体験をある種再現実験を何度も繰り返す科学者のように明確な到達目標と冷静な視点を持って観察している点が興味深い。
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC6244634/pdf/12671_2018_Article_922.pdf
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/35181885/

量子物理学者でありどちらかと言えば神秘主義者としての業績がクローズアップされる事の多いデビッド・ボームは量子力学の観測問題を解消するために明在系・暗在系という考え方を導入した。量子力学において粒子の挙動は虚数空間であるヒルベルト空間を用いて記述される。質量・運動量・エネルギーといった実数で表される実験観測量は粒子を記述する波動方程式を実数の確率に置き換えたものに過ぎない。しかし波動方程式自体は複素数で表されより豊かな内部構造を持っている。因みに波動方程式から実数の観測値が得られた時にこれを波動が収縮すると表現する事が多い。波動関数は少なくとも2次元以上の広がりをもっており、実数は点粒子の属性を表しているからである。ボーム自身は明言していないと思うが、明在系・暗在系というアイデアは基本的に我々が観測で目にする実数空間とその背後にある複素空間に呼応しているものと私自身は考えている。

量子力学あるいは波動方程式の二面性の分かり易い類推を挙げるとすれば、それはディスプレイに表示されたCG映像とCGを生み出すプログラムとの関係になるだろう。CG映像はピクセルの点滅である。各ピクセルの画素値はプログラムあるいは演算器によって実数として(0から255、16進数なら0からFFの間の値として)弾き出される。また画素値は複素空間上の計算によって算出されている(特にピクセルが点滅するような場合)。我々が画面を通して見るCG映像は光の点滅の膨大な集合だが、その本質はデータとプログラムそして計算である。しかしディスプレイの裏側で走っている機構はコードを書くプログラマにしか見えない。

モニタディスプレイは2次元の面だが、3次元のホログラムディスプレイについても全く同じ事が言える。やや専門的な言い方をすれば映像データを2次元配列で確保するか3次元配列にするかの違いでしかない。ここで思考を1歩飛躍させ、もし波動の収縮によって観測される質量やエネルギーなどの物理量が何らかの量子計算の結果であると仮定すると、この物理的な現実世界も一種の非常に精巧に作られたホログラムディスプレイであり、本質的な背景構造である量子計算のコードやアルゴリズムは我々からは見えていないと考える事も可能である。本職がエンジニアなのである種の職業病から技術的なアイデアをふんだんに盛り込んだ例え話をしているが、この発想自体は全く新しいものではない。比較的最近だとマトリックスという映画がまさにこのシミュレーション仮説のテーマを扱った作品だし、遥か紀元前にまで遡ればプラトンの洞窟の比喩がある。また仏教やヒンズー教、それらのルーツであるバラモン教においては無常という言葉で表されるように現世は幻であるという前提がその根底に流れている。古代ギリシャには勿論ブラウン管も液晶ディスプレイもホログラムも存在していなかった訳だが、プラトンは洞窟の奥で火が焚かれており、我々が現実だと思っているものは洞窟の主が演出している影絵であると書き残している。液晶ディスプレイもバックライトと光の遮蔽物で映像を作り出しているので原理的にはそれと全く同じ構図である。そして洞窟の外にあるのがイデアの世界、我々の日常的な感覚から隠蔽された暗在系の世界である。

暗在系や超感覚によってしか捉えられない、あちら側の世界の存在は宗教や哲学の中心的なテーマであった。量子力学的描像がそれに明瞭な輪郭を与えてくれる事を期待している。超感覚で捉える世界とは所謂あの世と呼ばれる死後の世界であり、深層心理学で集合的無意識と呼ばれるものであり、あるいは統合失調症で現れる一部の幻覚もそれに含まれていると私は考えている。こうした対象を実験科学的な手法で解析するのにNEDは非常に豊かな材料を提供してくれる。NDE体験者の証言を物理学的あるいは情報科学的な視点で再評価すると、科学的枠組みを通して説明出来そうな点が数多くある事に気が付く。

MP4などの動画ファイルに保存されたCG映像は全ピクセルの時空間情報を持つデータであるという事も出来る。時空をそのような実数の点の集合(あるいは4次元配列)と仮定した場合、例えば遠隔視は時空データ上の任意の領域へのアクセスであると考える事が出来る。またカルマの法則はバタフライエフェクトのようなカオス性を持っており力学系理論が適用出来る可能性がある。全知的感覚である知能爆発については脳内のシナプス結合数(メモリ容量)や電気生理現象(チューリングマシン)では実現出来ない計算原理を使っており量子超越性の発現である可能性が示唆される。

量子超越性や力学系理論は大きなパズルを構成する1つ1つの重要なピースであるが、外枠を埋めて見通しの良い全体像を得るために2つの重要な理論を導入したい。ホログラフィー原理と量子脳仮説である。これらの理論の外挿としてNEDや暗在系・集合的無意識に関する量子情報論的仮説が構築可能だと考えている。以降ではMI-NED体験者の証言に因んで便宜上これを銀糸仮説( silver cord hypothesis )と呼ぶ事にする。そこでまずホログラフィー原理と量子脳仮説について私が理解している範囲の概要だけでもかいつまんで説明する。

スティーヴン・ホーキングはブラックホールはいづれ蒸発して消失すると予言した。これだとブラックホールに吸い込まれた物体の情報も一緒に消失するように見えるが、量子力学では情報の喪失は起こらないとされているため矛盾が生じる。このブラックホールの情報喪失パラドックスを解消するためにレオナルド・サスキンドらによって提案されたのがホログラフィー原理である。因みにサスキンドは素粒子を点粒子ではなく1次元的な広がりをもつ紐として捉えたひも理論の提唱者でもある。ホログラフィー原理ではブラックホールに吸い込まれた物体の情報はブラックホール表面、事象の地平面上に記録されるとしている。事象の地平面とはそれ以上内側に入ると光さえも脱出出来ず観測不可能となる境界面である事からそのような名前が付いている。当初ホログラフィー原理の計算では一般相対論が前提とする平坦な4次元時空においてブラックホールの比熱が負になり、熱力学的に不安定になる事から筋が悪いとされていたが、1997年にファン・マルダセナが負の曲率を持った5次元時空(反ドジッター空間:AdS)を導入する事でAdS/CFT対応を示し、この問題を解消した事で一気に注目されるようになった。反ドジッター空間とは時空のような幾何学的対象(多様体)の1種であり重力理論である一般相対論との相性が良い。共形場理論(CFT)とは幾何学的構造を持たない量子場の理論である。素粒子のネットワークである量子多体系の理論であり、当然ながら複数の量子ビットから構成される量子コンピュータとも相性が良い。

量子脳仮説は奇遇にも同じブラックホール研究者であるロジャー・ペンローズによって提唱された。植物が光合成を行う際のエネルギー移動や地磁気を頼りに回遊する渡り鳥の磁気センサのように、常温である生物の体内で量子効果が発生する事は良く知られている。現在では量子コンピュータを動作させるのに液体ヘリウムが必要なように量子効果というものは一般的には極低温下でしか観測されない。波動が収縮せず、粒子が波の性質である量子コヒーレンスを保ち続けるには熱ノイズが邪魔になるからである。常温という非常に熱ノイズが多く量子コヒーレンスが失われ易い環境下で生物のタンパク質がどのようにこれを保っていられるのかは大きな謎である。ペンローズと麻酔外科医であるスチュアート・ハメロフは微小管内においても量子効果が発生していると提唱した。微小管は細胞骨格を構成する管であり細胞に形や機械的強度を与える。細胞分裂の際に1つの細胞が横に膨らんで最終的に2個に分裂出来るのも微小管の働きによる。微小管内で量子コヒーレンスが一定時間保たれる事はレーザーを使った実験で2021年に実証されている。微小管はチューブリンというタンパク質が重合し細胞質内で合成される。量子脳仮説では微小管を構成するチューブリンを量子ビットと捉え、神経細胞内部に量子コンピュータが作られていると考える。

ホログラフィー原理は事象の地平面を構成する2次元的な量子コンピュータから我々の住む観測可能な宇宙が創発される可能性を示唆している。量子脳仮説は脳内の神経細胞の更に内部にある微小管という管(これを広げると2次元のシートになる)が、同様に量子コンピュータを構成する可能性を示している。これら2つの種類の量子コンピュータが量子もつれを介して繋がっているというのが銀糸仮説の主張である。

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